2019年活動一覧

/ 2019/12/27 /
だんだん記憶の曖昧さに磨きがかかり(以下略)
昨年同様、年の最後に活動をまとめてメモしておくことにします。
(こまかな記事執筆、投句などは除外)

2月
「ねむらない樹」vol.2に「ふかふかの日々」短歌15首掲載

4月
週刊俳句第627号に「#春」俳句10句掲載
俳句四季5月号に「ひろふ」俳句16句掲載

5月
探偵俳句集『いるか探偵QPQP』刊行
「クッキーについてはすべて理解した」(フリーペーパー)に「焼き菓子の国」俳句7句
豆本の宇宙2019(メゾンドネコ)出展
  *
早坂類自選歌集 刊行(ブックデザイン)

6月
連句誌「みしみし」2号、連句「ゆふぐれに」の巻に参加、「約束/秘密」短歌10首掲載
Book Lovers(MOTOYA Book・Cafe・Gallery)出展

7月
俳句新空間No.11に「紙折る」俳句20句掲載

8月
「捨て台詞はありきたりなニュースペーパーのように 佐藤智也画集」(電子書籍・装丁と制作)

9月
『短歌研究』10月号付録「短歌研究ジュニア」編集委員

10月
豈62号に第5回攝津幸彦記念賞準賞「リクビダートル」俳句30句/同人作品「遊戯三昧」20句 掲載

11月
紙わざ大賞に「白の見本帳」入選
『扉のない鍵』3号に「WHERE DOES THIS KEY GO?」掲載

12月
『短歌研究』1月号付録「短歌研究ジュニア」編集委員/「コミ歌」掲載


ほか、ウェブ「俳句新空間」を隔週、「平成俳句帖」を毎週更新しています。
「俳句新空間」で「句集歌集逍遙」を不定期掲載。「RANGAI」で「造本の旅人」を不定期掲載(本年分は1回…)


ここ数年12月に体調を崩しがちでぐったりしていたのですが、今年はペース配分を少し考え、わりかし元気に年末を迎えています。
来年も頑張ろう。

「WHERE DOES THIS KEY GO?」のこと

/ 2019/12/05 /
「扉のない鍵」3号に参加しました。特集“「扉のない鍵」はどこにあるか”にちなんで、短い漫画を寄せています。タイトルまわりも手描きなんです。


絵の学校で「水彩」という授業がありまして、その時描いたものがなぜか今回ぽんと頭に浮かびました。
編集後記を読んでごめんね、江田さん…とちょっと思ったりして。

何パターンか描いた記憶があるのですが1枚しか出てこなかった。どこかにあるかもしれないし、ないかもしれない。
なにしろ20年近く前の絵なので、あっちへ運びこっちへ移ししているうちに散逸しててもおかしくはない。

来年はもう少しこのひとたちのマンガを描こうかな。
ちなみに人間はペーターで、猫はニンジャといいます。



今月発売される短歌研究1月号に「短歌研究ジュニア」第2号がつきます。そちらの絵はもうきっちり入稿しました。
よかったら買ってね読んでね。


noteをひっそり使ってます

/ 2019/11/05 /
少し前からnoteに過去の作品をアップしています。
…というのも、pabooが終了する、というお知らせが来たからなのですが…
その後運営会社が変更されたんだかなんだかで、サービス続行になったらしい。
しかしまあ、利便性とか考えて、登録だけしてほったらかしだったnoteを活用はじめました。
最近はネットのあれこれをすべてスマホで見る、という向きも多いそうですし、読みづらいものはできるだけ解消していこうと思います。







「豈」62号掲載の攝津幸彦記念賞準賞をいただいた「リクビダートル」全編を公開しました。
「豈」発売から一ヶ月あまり経ちましたし、なかなか手に入りづらいこともあると思うので。
画像はウクライナではなくて、日本の旅先の廃電車の車内を撮影したものです。10年ぐらい前のもの。

「リクビダートル」、構想というほどのものでもありませんが、長年喉の奥につっかえていた主題に取り組みました。応募作は30句だったのでこの形になりましたが、かなり削りましたし、なんというか間尺に合わない感じもあって。いつか何かのかたちでまとめることがあったら、50〜80句ぐらいの連作にバージョンアップする日がくるかもしれません。というかそうしたい。


(サムネイル用のとくに意味のないMUJI Cafeのプリンです)

和田さんのこと

/ 2019/10/27 /
和田誠さんがお亡くなりになった。
ひとつだけ「とっとき」の思い出があり、記して偲びたい。

2003年だからもう16年も前のことになる。刊行したばかりの歌集を和田さんにお送りしたところ、お手紙が添えられた句集が届いた。


手紙には“俳句をやっているので、詩歌の本を送ってくれたことがとてもうれしい”といった趣旨のことが書かれていて、句集にはこんな句が添えられていた。


「巴里の皿無事に届きて小正月」この句は句集には収録されていない。歌集のタイトル「フラジャイル」にちなんで書いてくださったものなんだと思う。
歌集のタイトルはいわゆる"handle with care"、取扱注意をさす単語である、とあとがきにちゃんと書いてある。壊れやすいとかもろいとかJPOPの曲名からとったとか、事実無根であったり、あとがきをまったく読んでいないか無視しているっぽいことを好き放題言われがちだったが、意図をちゃんとふまえて、しかもこんな粋に反応してくださったのは、ほとんど和田さんおひとりだけだった。
うれしくてうれしくて、大事にしてきた。これからも書棚で見守っていてください。

人形も腹話術師も春の風邪  和田誠
おでん屋のたねそれぞれに唄ひけり
梅雨晴間窓にヒンデンブルグ号 
秋の灯や集ひてやがて星になる

和田さんの句はその画風のようにやさしく且つコスモポリタニズムあふれるもので、句材は多岐に亘りながら、すーっと風が吹き渡るような読後感が残る。

生前の和田さんには一、二度お目にかかった。これも15年程前だろうか、TISのイベントのオープニングパーティに伺った時、偶然居合わせ、気さくにお声がけくださった。夏前ごろだったのだろうか、和田さんはアロハにジーンズの出で立ちが決まっていた。パーティが終わり、二次会に走っていかれた(本当に走ってた)。

故人のご冥福を祈りつつ、絵や句をめくり、秋の夜長を過ごしたい。

『サイレンと犀』15首選

/ 2019/10/10 /
とけかけのバニラアイスと思ったら夢中でへばってる犬だった
ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた
ねるまえに奥歯の奥で今朝食べたうどんの七味息ふきかえす
友達の遺品のメガネに付いていた指紋を癖で拭いてしまった
かなしみを遠くはなれて見つめたら意外といける光景だった
もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね
もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい
ピッチャーふりかぶってパン屑まいたマウンドに星の数ほど鳩のあしあと
蟬の一生をまとめた映像の交尾シーンで掛かる音楽
まただ のり弁掻き込んでいるときに後頭部から撃たれる夢だ
〈おはよう、世界〉のつぶやき多すぎて世界は基本スルーの姿勢
トピックス欄に訃報が現れてきらきら点るNEW!のアイコン
夕焼けにイオンモールが染まっててちょっと方舟みたいに見えた
This video has been deleted. そのようにメダカの絶えた水槽を見る
渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる


「サイレンと犀」を読みながら、ああこの人はまっとうに世の中を見ている人だなあ、とまず思った。コミカルで惨めで、ちょっとおかしくて無慈悲な今現在をしっかり見ている。時間の〈いま〉と言葉の〈いま〉はずれがちなものですが(そこがいいところでもあり、むずかしいところでもある)、この人の場合、その「ずれ」をできるだけ埋めよう、もしくはずれないようにしよう、としているのが、とてもいいところにつながっていると思います。

 もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね

 かなり散文化が進行した文体ながら、余情みたいなものを生んで、ぐっときた一首。二度出てくる「たしか」の微妙なニュアンスの違いが憎い。

「サイレンと犀」を読みながら、安福さんの、線は明確なんだけど、フォルムがどこか曖昧な挿絵が、歌の苦しさをほんの少し軽く持ち上げてくれているんだな、とわかった。

「サイレンと犀」を読みながら、うすうす笹井宏之さんのことが脳裏をよぎった。ふたりの歌は似ているというのではなく、近い世界を真逆のカメラアイで写し取っているようだな、という考えがめぐってくるのです。

 渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる

 きれいごとばかりの道へたどりつく私でいいと思ってしまう/笹井宏之

渋滞のテールランプが「汚くて綺麗」であることを肯う岡野さんの歌と、「きれいごとばかりの道」に至る「私」を肯う笹井さんの歌。表現の象徴的傾向、抽象度は別として、岡野作品にはきちんと価値判断があり、笹井作品には価値判断そのものがない、と思うのです。どちらがいい、悪い、というのではありません。


『同じ白さで雪は降りくる』15首選

/ 2019/10/04 /
レタスからレタス生まれているような心地で剥がす朝のレタスを
歯ブラシの腰のくびれのなかなかに握りやすくて春は暮れたり
バスゆれて眠る子ゆれて夢ゆれて夢のまにまにバス停がある
わたくしが育てるゆえにわたくし化していく子ども雨ふり嫌い
一個から変えるピーマン手に取れば軽い こんなに緑のくせに
栓抜けば湯よりもわれの流れ出てしまいそうなる夜のひろごり
全身にくまなく舟をめぐらせて永遠(とわ)に拡張されたき月夜
ふるふると掬い取られて欠けてゆくプリンは幼な心のごとし
ゆく扉くる扉ありて人生の長い廊下にドングリの落つ
優しさが善玉菌を造るという説あり雪は窓に光れり
脱ぐたびに静電気生むセーターをほかの力に換えられないか
白という哀しみ深く灰色の沼に落ちては沼になる雪
卓上に鍵を並べる 夕ぐれの鍵はそれぞれ疲れていたり
霜月の雨ふり止まず伝いくる水の綴りを窓に見ており
玄関に小さな靴は散らばって大きな靴を困らせている


手堅い表現力で身辺を冷静に見つめ、小さな発見を掬い取る。そうした多くの歌が連なっていくなかで、しかしその奥になにか「反骨心」と呼びたくなるようなものが時折顔を覗かせている。
子供が「わたくし化」していく、という言いぶりや、ピーマンに対してほとんどいちゃもんともいえる悪態をついてみせたり、そういうところを特に楽しんで読んだ。
「沼に落ちては沼になる雪」や「水の綴り」といった天象を詠んだ表現のなかにも、地味ながら立ち止まらせられるものが多かった。


9月の現状

/ 2019/09/22 /
短歌研究社の月刊誌「短歌研究」10月号の別冊、「短歌研究ジュニア」編集委員を務めました。


「少年少女のための短歌マガジン」と銘打たれたこの本は何冊か続きます。いいですよねこのキャッチフレーズ。
古今東西の名歌から「オールタイムベスト」として選んだ100首を解説、くわえて現代の最先端の歌を紹介する、という本です。
読んでね。



東京四季出版「俳句四季」10月号で「最近の名句集を探る」座談会に『景色』を取り上げていただきました。


筑紫磐井・齋藤愼爾・今泉康弘・野口る理の4氏の鼎談です。齋藤愼爾さんにウケる句があってよかった…。いろんな意味で吃驚しました。
読んでね。

まったくの余談ですが『景色』は表廻りのデザイン(カバー・表紙・化粧扉)を除いて、本文のレイアウト・組版は著者がやっております。
たいしたこだわりがあったわけでなく、いろいろこまごまと指定するぐらいなら自分がやったほうが早い、というそれだけです。
著者自装はちょいちょいありますが著者自組みはどれぐらいあるのだろう。

来月さ来月もなにがしか成果物があるのでまた都度お知らせします。

方法と目的と内容と主張

/ 2019/08/19 /
以下、自分用メモなので結論もなにもありません。

近現代短歌をあれこれひっくりかえしていて、うーんこのやり方はちょっとねー、とか、言いたいことはわかるけどなあ、とか、ああこの案配がね、とか脳内でわやくちゃ思っていると、方法と目的と内容と主張、などというレーダーチャートの項目じみたことが頭にのぼってくるわけです。
五角形にしたかったらここに調べが加わるのかしら。なんかそれは系統が違う気もしますが…

「語り」に限りなく近づきつつ音数は字余り気味であっても、ほぼそれが頭か足に吸収される作りをしていれば、読み慣れていれば自然と句に収めて読めるのですが「語り」の「内容」がほぼ「主張」だったり、「主張」のための流れ以外を見いだすことができないなーという場合のそのヘヴィさは音数をともなってぐっとくどく迫ってくるわけです。

いっぽう「語り」でありつつ最終的に喩や引用に水をひいていく、みたいな「方法」は前述の「くどさ」を回避しつつ、語りを好む面々からは肩すかしのように見えたり、深浅の評価は見る場所によってがらりと変わってしまうのでしょう。

個の主張なんて本当に必要なんすかねえ。
内容も主張も、それ自体が立派なものかどうかなんて、まったく主眼じゃないと思うのだけど。

(つづかない)



絵を描くということ

/ 2019/07/16 /
最近 #peopleskeching というタグをつけた画像をSNSに投稿しています。
ご興味をお持ちの方はご覧になってみてください。


はたちごろまでは絵を描いている時間のほうが、本を読んでいる時間より断然長かったのですが。
30歳ごろからだったか、だんだん絵を描くのがしんどくなってしまっていました。

当時はちょうど絵の学校に通っていたのですが、学校の課題はまあなんとかするとして、それ以外になにかを描くのがとにかく苦痛でした。

ものごころついたころからチラウラと筆記用具を握りしめていたというのに、
障子紙にキャンディキャンディを模写したものを小学校で売っぱらってちょっとした問題になったり(たしか10円ぐらいだった)、
ひとの家に遊びに行って「絵を描いていい?」と聞き、持参したスケブに絵を描き始めてしまう、というような(今思うと)おかしなこどもだったのに、
これはいったいどうしたことだろう。

当時は自分自身に困惑しました。
なんでもいいから描いたらいいじゃない、とお思いかもしれませんが、そういうことでもないんです。
らくがきをしようと線を描いても、そのあとが続かない。
なにも出てこないので、描く頻度が減る。
そうすると手はすっかりダレているので、「こうしよう」と思った線がまったくひけない。
描く頻度が減る。
という、デフレ(?)スパイラルに入ったんですね。

タブレットとスタイラスに慣れよう、とはじめたスケッチですが、
さいきん少し楽しくなってまいりました。
やはり思った線は描けていないのですが。

絵を描くということは、自分にとってはなにかの回路なんだろうと思います。


眼鏡ユーザーになりました

/ 2019/03/17 /
このぐらいの時間(深夜)になると、ディスプレイの字がだぶって見えて仕方ない。
居間の自分の椅子から、テレビの番組表の文字が読めない。
なんてことが続いたため、とうとう眼鏡ユーザーになりました。
老眼鏡は持ってたんですけども。

視力は1を切っているようです。
乱視も若干あるもよう。
オウ。
数年前まで1.5ぐらいあったんですよ。
愕然としていたら眼鏡屋のおねえさんに「ウチではこれは見えすぎなほうです」と言われちゃった。てへ。


普段本を読んだりするにも必要なくて、主にパソコン用って感じです。
そういや昔、眼鏡の「つる」をどっちから畳むか知らなくて、眼鏡ユーザーだったBFに笑われたよなあ、なんてことを思い出した。
ケースの中にどっち向きに入れるかも知らなかった。
今回ちゃんと教わりました。
なにせ初めてなもので。

慣れないせいか外したあとも少し色割れしてるみたいに見えることがあります。
ぼちぼちです。

よもぎデイズ・一周年

/ 2019/02/11 /
よもぎと一緒に暮らし始めて一年が経った。


体調は良好、よく食べよく眠っている。
同居してひとつきほど経過したころ、居住部屋のドアに猫ドアを取り付け、廊下と室内を行き来できるようにした。
わずかな距離でも内外があるのはやはりいいのだろうか、出入りして廊下を「散歩」するのが日課だ。(ちなみに先住猫は猫ドアを自力で開けることができない。糸で吊って開けてある。よもぎがあッという間に猫ドアを習得してすごいと思った)

保護時にかなり弱り、かがむのが困難だった後肢は動物病院ですすめられたサプリメントがよく効いて、ちょっと走れる程度に回復した。歩く姿は少々よたよたしているがすごい進歩だ。
レントゲンによって背骨の変形が判明している。後肢を使ったジャンプなどはまったくできない。おじさんの膝から降りる時も補助がいるが、ねこも人間も慣れてきたようだ。

保護時の検査でFLV陽性だったため、先住猫とはずっと隔離して生活している。
いまのところFLVの症状はほぼない。保護時はくしゃみ・鼻水がかなり頻繁だったがその後頻度がだいぶ減った。

猫・FLVで検索してたどりついた方のために。
我が家では食器を完全に分け、餌をあげる場所もまったく別にしている。よもぎのくしゃみ・鼻水などがつくこともあるためよもぎをケアした後、先住猫(非キャリア)に接触する前に手洗いを必ずしている。
食器を洗うスポンジ、ふきんも分けている(動物病院ではそこまでしなくても大丈夫ですよー、とは言われましたが)。
サプリメント以外に投薬的なことはしていない。
昨年抜歯を決行したけれど予後は良好、餌の食いもずっと落ちなかった。
(口中の状態は見れる範囲で見ていて、治療の跡が完全に見られないようになるまでは数ヶ月かかった)
途中便秘気味になり、消化サポートの療法食に切り替えたりなどしました。
とにかく食事と排泄は注意して見ています。

先住猫はよもぎの保護後四ヶ月ほど経過した頃にウイルス検査を受けて非感染を確認している。今後も経過は見ていきますが。

それにしても。
老猫はいい。
よもぎ(推定15歳以上)と一緒にいて、うろんな時間を過ごすこの喜びよ。
先住猫・綸子(推定13歳程度)はまだやんちゃで、人間の足下をうろついたり、こねこのような仕種を見せることが多いけれど、よもぎはどっしとした態度がゆるぎない。
トシだけじゃなくて、性格なんでしょうけどね。

画像フォルダのなかに6年程前に撮影したよもぎの姿があった。


外猫時代のよもぎ。この頃はまだ触れることもかなわず、ちょっと離れたところから見ていることしかできなかった。
彼はすでに外猫としてベテランの風格をたたえていた。
(恰幅のいい記憶があったけど、これは暑い時期の写真なので痩せているようにみえる)

おじさんは毎日よもぎをお膝にのせてのんのんしているそうだ。
これからまた一年、元気に過ごしてもらうのだ。

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