草まみれのファイティングポーズ・陣崎草子「春戦争」寸感

/ 2014/02/28 /
 作者の陣崎草子さんは絵本作家、イラストレーターでもあるそうだ。著者自身が手がけた装丁・装画の、カラフルな淡彩のイラストの表紙をめくると、鮮やかな緑の見返しが目にとびこんでくる。
 タイトル「春戦争」は実際作品のなかにも読み込まれている単語だ。集中には戦闘機や戦艦なども登場するが、歌集全体はものものしい雰囲気というより、旺盛な生命欲、少女漫画の登場人物に時々ある、瞳のなかに炎がメラメラ燃え上がっているような、そんな印象がある。見返しの緑色、萌えいづる植物たちのイメージともつながってくる。

 蝶のよう花のよう撃たれた兵士のように倒れるきれいな野原
 こんなにもだれか咬みたい衝動を抑えて紫陽花の似合うわたしだ
 祝日で、任務もなくて、小鳥ばかり追いかけ砲身回す戦車は
 一杯の砂糖すくってぶちまけて 腹が立ってることに正直だ

 一首目。戦闘的なものが海・野原といったおおきな景に回収される構図の歌がいくつかあった。そこで「わたし」は戦い抜いて、自然に還っていこうとしているのだろうか。二首目と四首目はどちらも自分のなかの暴力的なものと闘っている歌で、二首目では暴力的な「衝動」を途中から「紫陽花の似合うわたし」に転化を図っている。四首目では砂糖をぶちまけるところまでいって、でもまだ抑えている、そんなこわばりが結句「正直だ」で強く打ち出されている。三首目、戦車そのものの意思で小鳥を追って砲身をふりまわしているように見える、せつなさもある一首だった。

 どうやって生きてゆこうか八月のソフトクリームの垂れざまを見る
 ほんとうのちからがでればどこまでものびてゆけるって陰毛たちは
 なんの証明だろうアルミホイルくしゃくしゃにすればバカみたく光る

 一首目。溶けるまえに食べきれなかったソフトクリームが垂れる様子を生き様ならぬ「垂れざま」というのは、なんだかソフトクリームに魂を見ているようですらある。「おまえも頑張ってるんだね」とか。二首目。陰毛が登場する一連から、いちばん脱力させられた歌をひいた。そうか、邪魔にならないように遠慮してくれているのか、かの毛たちは。ここでもこれらちぢれっ毛たちに「ほんとうのちから」を認める、代弁者のような立ち位置がある。三首目。アルミホイルを痛めつけた(くしゃくしゃにした)結果、思わぬ光に出会った瞬間が勢いのある韻律で歌われていて、はっとさせられる。

 旺盛な生命欲と、少女特有の頑迷さみたいなもの(「かばん」的血脈、と勝手に心のなかで思うところもある。高柳蕗子・飯田有子・佐藤弓生・柴田瞳などが浮かんでくる)が、一行のなかにぱんぱんに詰まって、あふれだしそうである。世界というか、この世のすべてに対して、ことわりに対して、とにかくファイティング・ポーズをとらずにはいられない、そんな「濃さ」があった。ただし、語彙に少々強引さを感じてしまったところもある。

 何故生きる なんてたずねて欲しそうな戦力外の詩的なおまえ
 深海の砂ひと摑みするごとき疼痛ピアノの白を押し込む
 水たまり中央に赤いパンプスを置いてぼんやり見てる朝焼け

 一首目。「戦力外の詩」的なのか、戦力外の「詩的」なのか、判然としないがいずれにしろ手渡されるイメージが曖昧だった。「何故生きる」と「詩的」の取り合わせはかけ離れたものでもなく、意外すぎるものでもないからだ。二首目。「ピアノの白」というのは白鍵のことだと思うが、表現に遠回りをさせることは上の句でじゅうぶん為されているように思う。三首目。「水たまり中央」の「中央」は、言わなくても通じる、とつい思ってしまう。どうしても言いたかったら、せめて「の」を入れたらどうか。助詞をはぶくのは思った以上に難しいことだと個人的に思う。そしてより個人的には、中央かどうかより水たまりの深さや大きさの方が気になってしまう。

 私の意見は言ってみればいちゃもんのようなもので、これらの歌はまとまりを持った、カラフルな表情をたたえた歌である。ただ、呼吸を整えてゆっくりたどっていくときに、立ち止まらせられたところがあったということはしるしておきたい。

 きみの行方捜すメールに飛びのって夜をゆく長い髪をなびかせ
 惑う星におまえと生きて止めようもなくて珈琲あふれる深夜

 一首目。守護天使という言葉がなにとはなしに頭に浮かんだが、もっと切実な、恋する当事者の歌として読んでもいいのだろう。無理でもなんでも乗るわよ、という迫力が胸を打つ。二首目。惑星はたしかに「惑う星」だ。なんでこんな字面なのか。「止めようもなくて」が内心の決意からあふれる珈琲につながってゆく。二句~四句のたたみかける音の流れに強く腕をひっぱられるような魅力があった。

 自分自身をキャンバス、印画紙にして世界を映しこもうとしたら、吹いている暴力的な風を受けないわけにはいかない。きれいなものだけ、やさしいものだけを扱うなんていう考えは、陣崎さんにははなからないのではないか。漠然とした物言いになってしまうが、そんな凜々しさを感じる歌に出会えた。
 以下、好きだった歌を挙げます。

 好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ
 真夜中にひとりの輪郭光らせて歩く 汚れた鞄は祈り
 旗をふる人にまぎれて旗をふるだれも応援しませんの旗
 電子レンジは腹に銀河を棲まわせて静かな夜に息をころせり

生も死もある風景・斉藤真伸「クラウン伍長」寸感

/ 2014/02/02 /
「クラウン伍長」奥付で確かめたところによると、斉藤真伸さんは1971年生まれ。73年生まれの自分にとって同年代であるからか、歌集に収録された歌の語彙のはしばしに、きゅんとくるような、妙な親近感、見覚えのある景色を感じる。

書名の「クラウン伍長」は機動戦士ガンダムの端役も端役、一場面に登場して戦場の露と消える戦士の名前から取られている、とのこと。
思わず漫画「機動戦士ガンダムorigin」を読み返す。漫画のほうでは2巻の終盤に、大気圏近くで繰り広げられるジオン軍と連邦軍の争いのなかで、クラウン伍長の乗ったザクが大気圏に溶けていくさまがたしかに描かれている。

犬死にへの頌歌、とは加藤治郎さんによる解説の一節であるけれど、この歌集の中では死の瞬間そのものというより、生に混じって存在する無数の死に向けたまなざしが、とつとつとつむがれているようだ。
歌集冒頭の章からして「補陀落渡海」だもの。

村上春樹の小説の一節に、死が生と二項対立しているのだとしたら、「生きている」の対義語は「死」ではなく「死に続けている」である、というのがあった(出典探せなくてすいません)。死者は消滅するのではなく、「死」の状態を継続している、と。
「クラウン伍長」にはそのような視点が多分に含まれているように思う。

 歯の穴にしかと収まるアマルガムわが亡骸の手がかりとして

歯科診療記録が本人確認の有力な手がかりになることはメディアのおかげで今日知識として広まっていると思うが、実用としての歴史は案外浅い。日航機墜落事故の折に初めて大規模活用されたのが広まる契機となったことは記憶に新しい。
生きている私の歯を治療するための型どりは、同時にいつかの死の準備ともいえる。

 凍て空の流星群にまぎれつつクラウン伍長の火葬は続く

大気圏ぎりぎりでのガンダムとの攻防の果て、戦線離脱の契機を失い、シャアの「捨て駒」として自機もろとも燃え尽きたクラウン伍長の死。
地上から見上げる流星群のなか、あそこで今もクラウン伍長は燃えている。無名に近い死の風景を、今日の空に認める感覚がある。

 心理学実験棟にぴーぴーとヒヨコの幽霊さまよう母校

そんなクラウン伍長の歌の次に置かれたのがこれ。
…そ、そうだよね、ヒヨコだって霊になるよね、と初句を見ると「心理学」。いったいこの建物では何をやっているのか、といい意味で不安になる。

「死」と何度もタイプしているけれど、こんな感じ(こんな感じ?)で本歌集においての「死」の扱いは深刻というより風景の一部みたいになっている。
まるでこの世は生きている者だけのモノではない、とでもいうように。死者は無口な存在として、ちゃんとそこにいる。生きてる側が饒舌すぎるだけなのだ。

 水差しのなかはからっぽ真夜中の漫画喫茶は沈黙を売る
 農協ののぼりを濡らすはだれ雪ひとは生きるか雑用のため
 爆弾を仕掛ける場所がないじゃない薄さを誇る液晶テレビ

シニカルな視点を見ていると松木秀、生沼義朗といった名前があたまを過ぎるが、松木氏とはシニシズムの質が違うと思うし(彼ほど現代を嗤ってはいない、むしろ怒っている)、生沼氏ほど現代に「淫して」はいないと思う。一首目はとくに、個人的な郷愁を誘われた歌だった。漫画喫茶が純粋に「漫画を読ませる喫茶店」だった短い時代のことを思う。
以下、好きだった歌を挙げます。

 あああれは寂しいおとこ皿の上の秋刀魚をあんなにきれいに食べて
 藤棚を濡らせる雨にふと思うオランダ人の着衣水泳
 これもまた春の水なりスポンジに記念切手の糊を湿らす
 わたくしは鉛筆をいま削ってます他生今生の争いのはて


 
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