リアリズムへのアプローチ・望月裕二郎「あそこ」寸感

/ 2016/12/18 /
望月裕二郎さんの「あそこ」をまず手に取って、その勇気に内心賞賛を送った。あとがきを読んで、やはり、と思った。「言葉が「言外の意味」に縛られているということを批評的に提示するため」この題は最初から決まっていた、と書かれていた。
もっとずっと率直に言ってしまえば、日本語の「あそこ」という語は指示代名詞でありながら、女性器を指す隠語として長く認識されている(しかも大方の場合「性器」でなく「女性器」である)。吾妻ひでおの漫画「やけくそ天使」は主人公の名前が「阿素湖素子」といい(縮めて「阿素湖ちゃん」と称される)、スケベで奔放な性格と相まって、欲望を具現化したようなキャラクターになっている。名前として相応しすぎる言葉が斡旋された一つの例である。
「あそこに置いてある靴」といえば、それは手の届かぬ少し離れた場所に置いてある靴、を示す言葉だとわかるのに、「あそこ」と、言葉ひとつが放り投げられた途端、それは揶揄や下世話な話題の火蓋となりうる素材として感受されてしまう(余談だが「そこ」でも「ここ」でもなく「あそこ」であること、英訳すればit,thisではなくtheir,thatであるのもひとつのポイントだ)。

しかし、「言外の意味」があるのは、いけないことなのだろうか。言葉には複数の、使用される場所や使われ方により、まったく異なる意味を示すようなものもある。
多重的な意味が言葉同士の関係、文章を多義化、複雑化してしまうことは、いいことでも悪いことでもないと私は思う。短歌を完全に他者に向けて読んでもらおうと思ったら、ある程度この多義性を前提として考慮にいれなければならない。どんなささいな「かさなり」も、感受される可能性はあり、それは避けられないファクターのひとつである。
揶揄的な意味が先走り、罪もなく「ことば」が痛めつけられている、という様相があるとすれば、それはよろしからぬことである。望月さんの態度とは、痛めつけられがち、酷使されがちな「ことば」の側に立ち、「ことば」そのものを大事にしたい、ということなのかもしれない。

前置きが長くなった。いよいよ「あそこ」の歌をここで読む。

  おおきすぎてわたしの部屋に入らない栗がでてくるゆめにひとしい

  頭をきりかえる首から血をながしわたしはだれの頭で生きる

  真剣に湯船につかる僕たちが外から見ればビルであること

  考えてみればもともと考えることはなかった七字余った

一首目、構造が入り組んだ歌。「おおきすぎてわたしの部屋に入らない栗」は夢にでてきたもので、そのような夢に何かが「ひとしい」のだとも読めるし、部屋に入らない巨大な栗が眼前に出てくることが「ゆめにひとしい」のだとも読める。切りどころによって意図が変わる。読後、この一首全体が夢のように思える。
二首目。「頭をきりかえる」という慣用句を字義通り(というには少々強引かもしれないが)に「頭を物理的に交換すること」として捉え、「(別の)だれの頭で生きるのか」とひとりごちている。あまつさえ首からは血が流れているという描写。痛い。痛々しい。「わたしはだれの頭で生きる」の結句から「わたし」の自己同一性って何なんだ、という疑問も呼び起こされる。
三首目は吉川宏志の「夕闇にわずかに遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること」の本歌取りなのだろうか。自身からは遠く、心許ない程に小さく、てんでんばらばらに灯る街の灯のひとつひとつが窓である=そこにそれぞれ人がいる、と詠む吉川の作品に対して、「真剣に」湯船につかる自身の姿は、外部から見れば一棟のビルである=真剣さやそうでないものや、個別の事象が飲み込まれたひとつの建物である、と返しているように見えた。カメラアングルが真逆なのだ。吉川作品は自分の側から外部を遠望し、望月作品は自分から出発したカメラはどんどん引いていき、個人の判別をなくし、ビルの外側に出てしまう。
四首目は「無」を主題と内容と方法とで体現した一首。考えたら、考えることはないとわかった。デカルトとかフッサールとか、詳しい方はそういった領域に話をふることができるのだろう。まったく門外漢なので、「七字余った」の音数がきっちり七字分ある、ということだけ指摘しておきたい。字数は五文字だけど。「ななじあまった」で仮名書きすれば七文字だった。

ここまで読んできて、写生とは()という気持ちに、私はなっている。実相に観入して自然・自己一元の性を写す…の「実相」として、動作や状態、状況の報告から、ではなく、考えた、感じた、頭の中味(というのは少し語弊があるか。思念というべきか)から、現実の側へコマを進めている。頭の中味と現実(思念でない、実存のほう。解説しているようでいてかえってややこしい)との接続がなめらかなのが特長で、例歌でいえば、読む時間の推移(五首目)や言葉の重なり合い(一首目)といった修辞そのものが主題を修飾している。
そうしたリアリズムへのアプローチが、斉藤斎藤や笹井宏之を思わせる面もあり、興味深い。

リアリズムは既に新しいアプローチを迎えているのだと思う。新しい表現領域を見出し、そこに漕ぎ出す者たちが現れている。しかしその全貌が、状況が、明文化されていくにはまだ少し時間が要るのかもしれない。というか、もやっとしたまま100年経ってしまいそうな「写生」の議論に、「リアリズムの底引き」みたいなことが、実はこれから行われるのかもしれない。

最後に、好きだった歌群を挙げます。「あそこ」に幸多からんことを。

  ぺろぺろをなめる以外につかったな心の底からめくれてしまえ
  せつじょくってことばがあるのか(いくさだねえ)雪がみさいるでみさいるは風で
  丸裸にされてしまったわたくしの丸のあたりが立ちっぱなしだ
  この世界創造したのが神ならばテーブルにそぼろ撒いたのは母
  君からの電話で揺れる携帯のもう零れたい液晶画面
  曇天の高架橋の下あやまって昨日を映してしまう水溜り
  ミッキーのペニスが置かれる売店をどうして見つけられない僕たち
  アスファルトを行く僕は月に繋がれて機械が悲しいことを知ってる


祝・長谷川金田一公開記念 「イルカ探偵QPQP」増補版

/ 2016/11/19 /




イルカ探偵QPQP

箱庭か円谷英二風の庭
おほかたは空腹による好事かな
アイスクリーム売りには見えぬ三角筋
血文字のMに蟻が溺れて明易し
沓脱の下の奈落の泥だんご
ご遺体は仏か人か雲の峰
探偵はイルカのやうに艶めけり
展翅板百度に余熱爽やかに
抗菌の手拭いで血を拭ふかな
おまへがおまへが車座の夏座敷
わかつたと叫ぶ警部と探偵と
ゼロかオーかで揉める遺言執行者
其の寺の綽名のながき住職や
探偵は立つて新茶を飲み干せり
凶器なる身近なものやあとずさり
白扇でイルカをたたく老婦人
裏声の占星術師夏きざす
推理とは水脈を手で掴むごと
三体の藁人形の浮いて来い
雨蛙あまた従へさてと言ふ
君は少しこはれてゐるね夏の月
犯人は蝸牛三百飲みくだし
首か椿か持てない方を置いて行く
救はれる人なく閉ぢる夏芝居
夕凪やとけてさびしい保冷剤
バス停は村のはずれや凌霄花
巡査長敬礼汗も拭はずに
たましひの軽さイルカも人間も

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長谷川博己さんが金田一耕助を演じる「獄門島」がBSプレミアムで公開されるとの吉報に接し、「俳句新空間」No.6に寄せました俳句連作「イルカ探偵QPQP」増補版(掲載20句に8句を追加)を献じ奉るものであります。
※俳句の内容は横溝作品とは直接関係はありません。
(画像はクリックで拡大します)


川柳と俳句と接頭辞

/ 2016/10/31 /
話のはじまりは週間俳句第497号のこの記事を読んだこと。

『近現代詩歌』と僕の好きな五句/紆夜曲雪

池澤夏樹個人編集の日本文学全集『近現代詩歌』に対して、二〇〇〇年代の受け手として、また文学全集としてどのように思うか、といった感想がコンパクトに述べられていて興味深い。
後半、話題は入集しなかった作家の好きな作品を挙げて紹介する、というものになり、最後にあげられた石部明の作品、

 さびしくて他人のお葬式へゆく  石部明

についての読解(上記記事から引用)、

掲出句の「他人」は、死んでしまった人との絶対的な距離から生まれた呼称だと読んだ。死なれたらひとは圧倒的なまでに他人になってしまう。それも含めてさびしい。そういう距離を隔てた死者という「他人」に、それでもなお関係し続けようとしてしまう、それもまたさびしくて、きっとまた薄暗い路地を歩いてしまっている。

にんんん、と躓き、こんなことをつぶやいた。



掲出句を引用文のように読むこともできるだろう、と思う(ただし「さびしさ」の発生が葬式の後となるのは首肯しかねる)。そうすると、すべての葬式が「他人」の葬式ってことになりますね。「お葬式へゆく」という行為が過剰なものか、そうでないか、が鑑賞の分かれるポイントになるのだと思うけれど、「他人」を「死者」ととらえると、行為の過剰性は和らいで、なんか普通のことのように思えてしまった。それはそれでいいのだろうか。いいのかもしれない。

私がそうは読めなかった、これは過剰なことを言ってるのだ、と受け取ったのは、「他人」のせいではなくて、実は「お葬式」のせいだった、とツイートの後に思い至った。

ここで、この句を少し変えてみると、こんなふうになる。

 さびしくて他人のお葬式へゆく  石部明

 さびしい 他人の葬式へゆく

※上記の操作に作品を改変しようとか添削しようなどという意思はみじんもありません。川柳についての考えの補助線としてのみ書いております。

下段の表記では急に自由律俳句めいて見える。つづけると「さびしい他人」となってしまうので便宜的に一字アキを入れたが、このようにすると、「他人」が喩ではなく主観的事実の提示にますます近づいて見える。

「お葬式」が口語なのだ。口語なのに、概念みたいに見える。話し言葉として「お葬式」というけれど、句の中に現れるとき、俳句では接頭辞は使わないことのほうが多いのではないか。以下、川柳からひいてみる。

 みるみるとお家がゆるむ合歓の花/なかはられいこ

 中年のお知らせですと葉書くる/丸山進

 国道で死んだ蛙のお父さん/広瀬ちえみ

「お葬式」「お家」「お知らせ」「お父さん」といった接頭辞をもつ単語が使われることによって、句の内容が一個の事実から、行為の報告や観察から、概念の側へ向かって、ふわっと離陸する。このふわっとした感じが、俳句にはないもののように思う。

つづく(脳内で)



嵩をもつ

/ 2016/10/22 /
小津夜景「フラワーズ・カンフー」を眺める。
じわじわと驚きが内部にひろがるのを感じる。
「天蓋に埋もれる家」「出アバラヤ記」の嵩がくれる驚き。
(無知によりプレテクストについていくのに時間を要するわけですが、それはひとまず置くとして)

斉藤斎藤「人の道、死ぬと町」は全体が上記二編のような(方法はかなり異なるけれども)嵩をもつ一冊で、特に「棺、棺」はこの分厚い歌集の五〇ページを占めている。
「棺、棺」はこの一連で、短歌連作と歌人論と短歌の本質論と殯をぜんぶいっぺんにやってしまっている。

短歌や俳句で「何」ができる、とか考えるのが私はあまり好きではないのだけど、嵩をもつことに意義がある、と
この嵩がこれらには必要だよね、と思えるものに出会ったのはうれしいことです。

(蛇足ですが「天蓋に埋もれる家」を読んでヤン・シュバンクマイエルの『アッシャー家の崩壊』を思い出しました)

最近のどうこう

/ 2016/10/01 /
最近どうこうしているか、のご報告です。

ひょんなご縁から「blog俳句新空間」でなんやかや書かせていただいてます。
季節毎の「俳句帖」にだいたい五句俳句を寄せ、「およそ日刊俳句新空間」では2年にわたり人外俳句鑑賞をしました。(まとめは前回分↓を参照)
紙媒体「俳句新空間」が年に二度ほど出ておりまして、こちらでは新作二十句を寄せています。最新号では企画「二十一世紀俳句選集」にも参加、二〇〇〇年代の自選十句を寄せました。


早坂類さん主宰のweb媒体「RANGAI」では造本作品のweb展示を不定期で行っています。
今日(10/1)付で4回目を公開しました。



これまでの展示はこんな感じ↓です。







人外句境コンテンツまとめ

/ 2016/07/04 /
web俳誌「俳句新空間」内の1コーナー・およそ日刊「俳句新空間」で不定期連載しておりました俳句鑑賞「人外句境」がこのたび終了しました。
以下に全回のリンクを張っておきます。
ご興味ありましたらご覧いただけるとうれしいです。

2014年12月からおよそ2年半の間、だいたい隔月で書いておりまして、途中から書くスタイルが少々変わってたり(最初は純粋に一句評をしていたのが一句評+αな感じに)しますが、基本的に「人でないもの」の登場していると思われる俳句の鑑賞文です。

1 たましひが人を着てゐる寒さかな/山田露結

2 ピストルをむけたら猫が近づいた/長嶋有

3 ロボットが電池を背負ふ夕月夜/西原天気

4 舞踏して投げてドリアン道の果/安井浩司

5 礼装が那由他の蝶をささめかす/筑紫磐井

6 木乃伊の手胸にとどかず雁渡る/大石雄鬼

7 靴べらの握りが冬の犬の顔/上田信治

8 蛍消えとなりの人とさはりあふ/佐藤文香

9 貝殻追放月は人照らしけり/田中裕明

10 雉は野へ猿は山へと別れゆき/辻征夫

11 絵本すずしピーターラビツトずるしずるし/辻桃子

12 雲呑は桜の空から来るのであらう/摂津幸彦

13 人魚恋し夜の雷聞きをれば/川上弘美

14 百物語つきて鏡に顔あまた/柿本多映

15 少女みな軍艦にされ姫始/関悦史

16 雪女ヘテロの国を凍らせて/松本てふこ

17 防湿のパンドラの匣百日紅/中山奈々

18 骨壺を抱いてゐさうな日傘かな/北大路翼

19 夏近し火星探査機自撮りせよ/飯田有子

20 白皙の給仕に桜憑きにけり/竹岡一郎

21 人形も腹話術師も春の風邪/和田誠

22 国の名は大白鳥と答えけり/対馬康子

23 草餅を邪神に供へ杵洗ふ/車谷長吉

24 回送電車軽々と行く秋の夜半/林望

25 春の簞笥の口あけている/岡田幸生

26 大凧の魂入るは絲切れてのち/髙橋睦郎

27 たましひも入りたさうな巣箱かな/藺草慶子

28 夕闇に冷蔵庫待つ帰宅かな/小川軽舟

29 チルチルもミチルも帰れクリスマス/竹久夢二

30 初夢に踊り狂へり火星人/高山れおな

31 とけし顔胴に沈みぬ雪達磨/岸本尚毅

32 風船になつてゐる間も目をつむり/鴇田智哉

33 箱庭にもがきし跡のありにけり/青山茂根

34 てのひらに蝌蚪狂はせてみたりけり/櫂未知子

35 行く春や踊り疲れし蜘蛛男/芥川竜之介

36 脛毛なきロボット登るかたつむり/佐怒賀正美

37 今晩は夜這いに来たよと蛸が優しい/御中虫

38 立ち上がるときの悲しき巨人かな/曾根毅

39 旅鶴や身におぼえなき姉がいて/寺山修司

40 月の人のひとりとならむ車椅子/角川源義

まとめ(あとがき)


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