以下、自分用メモなので結論もなにもありません。
近現代短歌をあれこれひっくりかえしていて、うーんこのやり方はちょっとねー、とか、言いたいことはわかるけどなあ、とか、ああこの案配がね、とか脳内でわやくちゃ思っていると、方法と目的と内容と主張、などというレーダーチャートの項目じみたことが頭にのぼってくるわけです。
五角形にしたかったらここに調べが加わるのかしら。なんかそれは系統が違う気もしますが…
「語り」に限りなく近づきつつ音数は字余り気味であっても、ほぼそれが頭か足に吸収される作りをしていれば、読み慣れていれば自然と句に収めて読めるのですが「語り」の「内容」がほぼ「主張」だったり、「主張」のための流れ以外を見いだすことができないなーという場合のそのヘヴィさは音数をともなってぐっとくどく迫ってくるわけです。
いっぽう「語り」でありつつ最終的に喩や引用に水をひいていく、みたいな「方法」は前述の「くどさ」を回避しつつ、語りを好む面々からは肩すかしのように見えたり、深浅の評価は見る場所によってがらりと変わってしまうのでしょう。
個の主張なんて本当に必要なんすかねえ。
内容も主張も、それ自体が立派なものかどうかなんて、まったく主眼じゃないと思うのだけど。
(つづかない)