仲直りしてあげるから買ってきて雪のにおいのアイスクリーム
口からこぼれでる言葉が、そのまま空気を含み、ふんわりと球形を描いているような人が、時々いる。食べたものがおいしいとか、しんどいとか、眠いとか、なにげないつぶやきさえ、その人が文字として並べると、ほわほわして見える。ツイッターのタイムラインに存在するさくらこさんに私はそんな印象を抱いている。
キャラメルコーン買ってきて、と佐藤真由美さんは歌ったが、さくらこさんが要求したのはアイスクリームだった。雪のにおいのする、特別なアイスクリーム。かぐや姫が三人の皇子にふっかけた難問を思い出す。あるいは、彼が買ってきてくれるなら、それが「雪のにおいを持つ」特別なアイスクリームなんだ、ということなのかもしれない。アイスクリームは適度に空気を含んだ方がおいしい、というトリビアを思い出す。
恋の歌がどっと押し寄せてくる歌集でありながら、その大半は「現場」ではなく、回想だったり、会えない日のことが歌われているように見える。泣いたり笑ったり拗ねたり、ひとつひとつの恋の場面を振り返り、言葉に置換している、という印象だ。
電気屋で手を繋いでいる「ご新居はどちらですか?」と聞かれる遊び
この夏は観測史上君のこと最も好きになる予報です
台風に負けない動きのワイパーをまぶたに設置したから泣くよ
渾身の空振りだよね(エマージェンシー!エマージェンシー!)うるさいよ涙腺
ちょこちっぷくっきーって言うときの顔好きだったとか早く忘れろ
勢いがあって、ぎゅんぎゅんくる歌を選んでみた。一首目、夫婦を装って家電を見ている場面。装っているわけではなく、そこでそうしていれば、フーフっぽく見えることを知っている。「遊び」という結びには、強がりと矜持が入り混じっている。二首目、天気図にひとつも低気圧がないような、スカッとした晴天が脳裏に浮かぶ。「楽しくなる」とか「好きになってもらえる」のではなく、「好きになる」ことに主眼がある。三首目と四首目はどちらも泣くことの歌だけれど、さめざめとした自愛の涙ではなく、極限までいった、決壊!といった趣(?)のある表現で、いいぞいいぞ、と変な茶々を入れたくなってしまう。五首目は恋愛の些細な真実をやわらかく言っていて、ぐっとくる。些細だからこそ、焼き付いてしまってなかなか拭えないものが残る。
魔法瓶に一晩泊まってゆくといい 銀色のお湯になれる幸福
ばらばらの君を拾って集まった骨に名前がなくてさびしい
サイダーの千の気泡を飲み干して さあ、もう人でないものにおなり
こんどからこうしようって提案を部長みたいにしないでほしい
こちらにひいたのは屈託のある歌。魔法瓶のお湯、は淹れた温度より熱くなることはない。幸福と結びながら、はじめから翳りがひそんでいる歌だ。二首目、断片的なかけらをあつめて、それを「思い出」と呼ぶこともできない。「骨に名前がない」はくるしく、切実な修辞だ。三首目、「人でないもの」になれ、と語りかける対象は誰なのか。ここでは「私」であると受け取った。希求する心の激しさが、逸脱してしまう。四首目は連続した歌ではないが、現実の側からだけモノを言ってくる「部長みたいな」ひとに、人でないものがぶつかっていくのは難しそうだ。
おう、わしやわしや、と電話かけてくるこの町のおじさんはみんな
町中のいたるところで燃え尽きるホース格納箱の情熱
国道で寝ころんでみる午前四時の北斗はすこしつよくかがやく
L'ensemble des dissonances(不協和音のアンサンブル)と題されたⅡ部からひいた。この章はさくらこさんのクロニクルなのだろう。大人達の「思い」を浴び、飲み込んだ「私」がいて、そんな「私」も歳月という乗り物によってどんどん運ばれていく。丹念に振り返りながら、やがて前を向く「私」の姿がある。三首目は歌集全体を通して特に好きな歌で、新聞配達の途上、薄明に消え残った北斗七星を、国道に寝転んで見上げている。「つよくかがやく」のは、たったひとりの情景を、寝転んだ全身で受けとめている、さくらこさんそのものだよな、と思う。
以下、好きな歌をひきます。韻文には、短歌には、真実が含まれていてほしい、というのは私個人の願いですが、ここでいう真実とは、ひとめ見てわかるような客観的事実とか、即共有可能な共通事項、とかではないのです。ひとりにとってのまぎれもない真実。それを読むひとに対して接続可能なものとして差し出すために、修辞をこらすのだと思うのです。さまざまな角度から、修辞をトライしている、このような歌群にひかれました。
行くことのない島の名はうつくしい 忘れられない人の名前も
寂しん坊ようこそ夜へ階段を降りきるときの恍惚のまま
夢で会うなら監督はわたしだし別れのシーンはカットしておく
雨のない街に生まれてくる人の涙を掬うしごとがしたい
踊っても、踊っても雨 どうすれば愛せなくなるのか考える