その後の猫、A・B・C・D・E

/ 2018/02/22 /
昨年の後半、喜怒哀楽書房さんの機関誌「喜怒哀楽」にエッセイ「猫、A・B・C・D・E」を寄稿した。
(リンク先のバックナンバーからPDFをご覧いただけます。2017年の8・10・12月号です)
今日は猫の日ということで、登場猫物たちのその後のことを書いてみる。

猫Aこと飼い猫綸子(りんこ)氏は相変わらず元気である。今年の3月で我が家に迎えて丸9年になる。推定年齢は3〜5歳から12〜14歳になったはずだけど行動原則はほとんど変わっていない。よく食べ、よく眠り、膝に飛び乗ってくる。人気のないリビングでは禁じられたダイニングテーブルの上に乗り、人間が来た途端飛び降りて素知らぬふりをしている。

猫C・Dは秋口に数ヶ月見かけなくなった後(面倒を見ていたTさんから最近来ない、ときいていた)、ひょっこり戻ってきた。Dはもう仔猫の面影はなく、雄猫を見かけると喧嘩をふっかけるようになった。ひところ夜な夜なDのうなり声と喧嘩する物音が聞かれた。それまで一緒に過ごしていた猫にも挑みかかるため、Tさんからも怒られていたようだ。
最近はあまりうなり声を聞かない。相変わらずTさんの後ろを追いかけて歩いている姿を見かける。

猫Eは数件の家で今もかわいがられているようで、がちむちボディーでお散歩している姿を目にする。

そして猫Bは、我が家の猫になった。
年末頃、Bに猫風邪の症状が現れはじめた。その少し前から敷地の一角に段ボールを置いて雨風をしのげるようにしておいたが、急に具合が悪くなり、段ボールから起き上がるのがやっとの日々が続いた。
ウェットタイプの餌も食べず、口元にあてがったちゅーるを少し嘗めるだけでやめてしまう。

それとはまた別の話で、私が猫に給餌するのを快く思わない近所の人によって、いやがらせをされるようになっていた。具体的には、レジ袋に入れた動物の糞を玄関先に投げ込まれたり、家の前で大声で文句を言われたり、など(どちらもこちらから見えないようにされて、直接文句を言ってはこない。陰湿だ)。猫が好きで、地域猫的に世話をする人もいれば、庭に糞などをされて迷惑がっている人もいることは知っていた。なるべく被害のないよう、餌を据え置いたりせず、猫用のトイレを設置し、目についた糞を集めるなどはしていた。でもまあ、そういう問題じゃないのでしょうね。ウチに糞を投げ込んだところで、野良猫がそこんちの庭に来なくなることはないと思うし。

そもそも私がここに住む以前からこの界隈には猫が住んでいた。畑や田んぼが隣接し、庭付きの戸建てのあいだに雑木林が残るこの地域は、都会のど真ん中とは違い、さまざまな動物が生息している。いろんな動物の「落とし物」がされるのは仕方ないことだろうと思っていたが、八つ当たりのようにして鬱憤を晴らそうとする人もいるのだなあと残念だった。

このままでは猫そのものに危害を加えられるかもしれない。家の者にも私にも迷いはなかった。
年があけてじき、Bを連れて病院へすっとんでいった。

BはFIVキャリアだったため、先住猫とは別の部屋で元気に暮らしている。
おそらく10年ぐらいは外暮らしだったであろう彼が、完全室内暮らしを少しでもエンジョイしてくれているといいのだが。

Bの新しい名前は「よもぎ」です。よもちゃん、よもさん、などと呼ばれている。
二猫二人体制となった我が家の今年の猫の日は、去年よりちょっとだけ賑やかだ。

綸子氏

よもぎ氏

『ピース降る』15首選

/ 2018/02/11 /
こころには水際があり言葉にも踵があって、手紙は届く
一日のわたしをひとり終わらせる戦争の夢を見そうな気がする
キャベツ一枚剝がしそのまま齧る春ひとの眠りにつばさを重ね
ほんの少し空中に生をとどめおき息苦しさは生きる苦しさ
だってまたおいで待ってるからねって言ったよね言ったよね言ったじゃないか
菜の花を食めばふかぶか疼くのは春を紡いでいる舌の先
ほろほろと生き延びてきて風を抱くきみの感情のすべてが好きだ
夜に夜の手紙を書いて折りたたむ春には春の映画を観よう
このひとも空から垂れているような姿勢で冬の氷菓をねぶる
合鍵を束ねて夜を見上げても知らない星座には帰れない
星ひとつ滅びゆく音、プルタブをやさしく開けてくれる深爪
きらきらと痛むこころの水底にやわらかい尾が動き始める
透きとおる傘をわずかに傾けてわたしは色をこらえきれない
助手席の窓にもたれている顔に表情がなさすぎて笑った
オリオン座わたしがひとを産むときに燃え尽きていく夢を見させて

『ピース降る』は前歌集『硝子のボレット』から3年の後刊行された、田丸まひるにとって3冊めの歌集になる。
夜舟さんの筆による装画『脱衣』は大勢の少女がふわふわした紅の衣を脱いでいるようにも見えるし、少女たちは木蓮かなにかの花そのもので、花弁を脱ぎ捨てている、というような解釈も成り立つように思う。膝や臍、くるぶしの赤さが肌の白さをより際立たせていて、危うさと清らかさ、弱さと強さが同居した美しさを見せている。

前歌集との比較でいうと、歌の内圧みたいなものがだいぶ変わった。主題(生きる苦しさ、生きづらさとの対峙、中和、処方箋)はそのままに、一首のなかの言葉の滞空時間が、ぐっとゆるやかになっている。油彩画を見るとき、色彩は細やかに変化しているのに、筆跡は驚くほどなめらかでおおぶりなことがある。短歌の場合も、習熟していくにつれて、歌の中の言葉の要素が減り、空間をゆるやかに使うことができるようになっていく。たくさんの言葉が盛り込まれ、事柄が細かく刻まれ、一行が変化に富んだ、緊張感の高い歌、もあれば、ひとつの事柄をロング・ブレスで、少ない要素で間合いや音の響きをより駆使して詠む歌もある。それは詠まれる事柄の性格とは直接関係がない、ひとつの技術のかたちである。

「戦争の夢を見そうな気がする」はココロおだやかならないことを搦め手で告げている。今夜も眠れそうにない、安眠を得られそうにない、ということを別な言い方で言っているのだろうか。結局あなたの一日は終わらないじゃないか、夢の中でも戦うのかよ、と、おいおい大丈夫か、とツッコミを入れたくなってしまうが、「終わらせる」「気がする」二つの終止形によって自己完結しているこの歌は、少しの冷静さを保っているし、そこにどうしようもないさみしさが滲んでいる。

「言ったよね言ったよね言ったじゃないか」リフレインは、こうしてたたみかけることによって「待ってるからね」と言ってくれた相手が、もうその約束を守ってはくれないのだろう、ということを推察させる。状況の説明と、心情の高ぶりを同時に果たす、心憎く、つらいフレーズだ。

「きらきらと痛むこころの水底にやわらかい尾が動き始める」は、少しふしぎな歌だ。「こころ」は定形のものではなくて「こころの水底」があって、そこに「やわらかい尾」が動き始めるのだ、という。汎用の表現として、こころはハート型だったり、なにか固有の形を持つものとして描かれたり、語られたりしがちなものだが、この歌ではこころが池のようなもの(ファームとでもいおうか)で、そこにオタマジャクシよろしくなにかが育っている気配を伝えている。「気持ちが芽生える」「気持ちが育つ」などという言い方はあるが、それは気持ちという固有のものが変化して成長する、というニュアンスである。この歌の、こころのなかにさらに生の痕跡が生まれる、みたいな言い方はおもしろいな、と思った。

これはひとえに、私の遅筆のせいによるものだが、『硝子のボレット』と『ピース降る』、ふたつの歌集をこうして短い期間に同時に読み、考える機会に巡り会えたことは、とても貴重な経験だった。


さきにも書いたが、「書き方」のゆるやかさと、主題のハードさ、ソフトさには直接の因果関係はない。ソフトな主題をゴリゴリに攻めて書くこともできるし、ハードな主題をぼんやりと、白玉を掬うがごとく表現することもできる。
ただ、個人的に、まひる氏がこのロング・ブレスを使いこなされていることは、彼女にとってよいことなのではないか、と思った。時に誰かに宛てた処方箋のような歌を詠むときに、諸刃の剣のように、キレッキレにインを攻めていくばかりが正解でもないだろう。言葉は身体に充分跳ね返ってくるものだから。リフレインや情景描写を適切に取り入れ、一首の空間をなめらかにすべる言葉で制御する。その技を今後も存分に発揮していただきたい。


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