『サイレンと犀』15首選

/ 2019/10/10 /
とけかけのバニラアイスと思ったら夢中でへばってる犬だった
ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた
ねるまえに奥歯の奥で今朝食べたうどんの七味息ふきかえす
友達の遺品のメガネに付いていた指紋を癖で拭いてしまった
かなしみを遠くはなれて見つめたら意外といける光景だった
もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね
もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい
ピッチャーふりかぶってパン屑まいたマウンドに星の数ほど鳩のあしあと
蟬の一生をまとめた映像の交尾シーンで掛かる音楽
まただ のり弁掻き込んでいるときに後頭部から撃たれる夢だ
〈おはよう、世界〉のつぶやき多すぎて世界は基本スルーの姿勢
トピックス欄に訃報が現れてきらきら点るNEW!のアイコン
夕焼けにイオンモールが染まっててちょっと方舟みたいに見えた
This video has been deleted. そのようにメダカの絶えた水槽を見る
渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる


「サイレンと犀」を読みながら、ああこの人はまっとうに世の中を見ている人だなあ、とまず思った。コミカルで惨めで、ちょっとおかしくて無慈悲な今現在をしっかり見ている。時間の〈いま〉と言葉の〈いま〉はずれがちなものですが(そこがいいところでもあり、むずかしいところでもある)、この人の場合、その「ずれ」をできるだけ埋めよう、もしくはずれないようにしよう、としているのが、とてもいいところにつながっていると思います。

 もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね

 かなり散文化が進行した文体ながら、余情みたいなものを生んで、ぐっときた一首。二度出てくる「たしか」の微妙なニュアンスの違いが憎い。

「サイレンと犀」を読みながら、安福さんの、線は明確なんだけど、フォルムがどこか曖昧な挿絵が、歌の苦しさをほんの少し軽く持ち上げてくれているんだな、とわかった。

「サイレンと犀」を読みながら、うすうす笹井宏之さんのことが脳裏をよぎった。ふたりの歌は似ているというのではなく、近い世界を真逆のカメラアイで写し取っているようだな、という考えがめぐってくるのです。

 渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる

 きれいごとばかりの道へたどりつく私でいいと思ってしまう/笹井宏之

渋滞のテールランプが「汚くて綺麗」であることを肯う岡野さんの歌と、「きれいごとばかりの道」に至る「私」を肯う笹井さんの歌。表現の象徴的傾向、抽象度は別として、岡野作品にはきちんと価値判断があり、笹井作品には価値判断そのものがない、と思うのです。どちらがいい、悪い、というのではありません。


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