よもぎデイズ

/ 2018/06/15 /
すっかり猫日記みたいになってますが、やはり猫の日記です。

某月某日
よもぎ滞在一ヶ月、動物病院で二回目のワクチン。
歯の状態がよろしくないとのことで次の診察で術前検査をしてもらう予定。
後ろ足に力が入らないようで、ジャンプなどができない。
サプリメントを与えてみることにする。


某月某日
滞在している部屋のドアに猫ドアを設置、廊下の階段降り口にベビーゲートを設置。
歩ける範囲が増える。
猫ドアはなんとかして開けて通っている模様(先住猫は猫ドアを開けないので年中開きっぱ)
サプリメントはソフトカプセルで、そのままでは食べないので割ってウェットフードに混ぜて与える(割っても平気、と病院で教わった)。
むしゃむしゃ食べる。

某月某日
キャットタワーに登らなくなった。というか、もともと登っていなかった(下り専用)
出窓に接しているのでタワーづたいに登ったらいいのに…という人間の思惑は通じなかった。
前脚の力で出窓に直接這い上がり、帰りはタワーを降りる、というのをやっていたのがめっきり回数が減り、ほとんど登らなくなった。
やはり足腰が痛いのかもしれない。なお前脚はガチムチ。



某月某日
術前検査に病院へ。
血液検査OK、老猫なので術後の予想される経過、麻酔のリスクなど説明を受ける。
保護時は15歳ぐらいですかね、と聞いていたけれどその後の様子や歯の状態などからもっといってるのでは…とのこと。
麻酔の醒め方によっては入院させましょう、とのこと。
前日夕食後当日朝まで絶食、など説明を受ける。わかりました、と聞きつつ超動揺。

某月某日
手術前夜、何かを察したのか餌を半分以上残す。家に来てはじめて。

某月某日
手術当日。ふたりがかりで病院へ搬送、車中ではずっと不平不満を聞かされ「はいはーい」「そうだねー」と生返事を繰り返す。
執刀医に引き渡し。
帰って気もそぞろに仕事。
夕方、お迎え。手術は無事成功、抜いた歯を見せてもらう。たくさん。
実は手術終了時にもらった電話の後ろで不平不満を述べていたのが聞こえていた。
経過は良好で、夜遅くに餌を与えてもよい、とのこと。
エリザベスは嫌がりはずす。
部屋に帰ったところ麻酔の影響でフラフラになりながら部屋を徘徊し、何度も転ぶ。
深夜にペーストの餌を与えたところぺろりとたいらげた。
ほどなくトイレも使う。トイレでも何度も転ぶ。

某月某日
二週間後、術後診察。
懸念していた抗生物質はウェットフードに混ぜたところすべて食べてくれた。
歯茎の経過はよいとのこと。超安堵。
まだ糸があるけれど溶けるとのこと。
よもぎはFIVキャリアなので術後の経過に不安があった。
まったく問題なく、餌の食べ方も慣れてきたようで、スムーズになってきた。
食べ残しもなくなってきた。
サプリメントの効き目は地味にあるようで、歩き方のヨタヨタ加減が少しずつ軽減しているようだ。

毎日おじさんの膝でのんのんしているらしい。結構結構。





よもぎ噺

/ 2018/03/16 /
「よもぎ」がウチに来て二ヶ月経った。
iPhoneのカメラロールに外猫時代のよもぎの画像があった。


なんだったか忘れてるけど、くつろいでいるっぽい。
家のまわりで掃除をしたり、草取りをしていると、傍によってよくこのようにくつろいでいた。

最近の様子はこちら。


家の者の部屋のど真ん中でくつろいでいる。敷いているのは家の者のおさがりの防寒寝具。
よもぎのおかげで彼の部屋は相当片付いた。猫トイレとキャットタワーを置いても床が見える。奇跡である。

私は現場を見られたことがないのだけど、よもぎは毎日のように家の者の膝に乗ってイチャイチャしているらしい。我が家ではそれを「膝のんのん」と呼んでいる。
よもぎの元の飼い主はおじさんなので、やはりおじさんが好きなのかもしれない。
おじさん同士(よもぎの推定年齢は10歳〜なので)仲良くしているようで、結構なことだ。

よもぎはたぶんシャムと何かのミックスなのだろう。種類が何だったらいいということは特にないけれど、顔の色や柄を見るにつけそう思う。
毎日「かわいいね」「いいこだね」「いいうんこしたね」など語りかけている。ほめて(物理的に)伸ばす方針だ。

その後の猫、A・B・C・D・E

/ 2018/02/22 /
昨年の後半、喜怒哀楽書房さんの機関誌「喜怒哀楽」にエッセイ「猫、A・B・C・D・E」を寄稿した。
(リンク先のバックナンバーからPDFをご覧いただけます。2017年の8・10・12月号です)
今日は猫の日ということで、登場猫物たちのその後のことを書いてみる。

猫Aこと飼い猫綸子(りんこ)氏は相変わらず元気である。今年の3月で我が家に迎えて丸9年になる。推定年齢は3〜5歳から12〜14歳になったはずだけど行動原則はほとんど変わっていない。よく食べ、よく眠り、膝に飛び乗ってくる。人気のないリビングでは禁じられたダイニングテーブルの上に乗り、人間が来た途端飛び降りて素知らぬふりをしている。

猫C・Dは秋口に数ヶ月見かけなくなった後(面倒を見ていたTさんから最近来ない、ときいていた)、ひょっこり戻ってきた。Dはもう仔猫の面影はなく、雄猫を見かけると喧嘩をふっかけるようになった。ひところ夜な夜なDのうなり声と喧嘩する物音が聞かれた。それまで一緒に過ごしていた猫にも挑みかかるため、Tさんからも怒られていたようだ。
最近はあまりうなり声を聞かない。相変わらずTさんの後ろを追いかけて歩いている姿を見かける。

猫Eは数件の家で今もかわいがられているようで、がちむちボディーでお散歩している姿を目にする。

そして猫Bは、我が家の猫になった。
年末頃、Bに猫風邪の症状が現れはじめた。その少し前から敷地の一角に段ボールを置いて雨風をしのげるようにしておいたが、急に具合が悪くなり、段ボールから起き上がるのがやっとの日々が続いた。
ウェットタイプの餌も食べず、口元にあてがったちゅーるを少し嘗めるだけでやめてしまう。

それとはまた別の話で、私が猫に給餌するのを快く思わない近所の人によって、いやがらせをされるようになっていた。具体的には、レジ袋に入れた動物の糞を玄関先に投げ込まれたり、家の前で大声で文句を言われたり、など(どちらもこちらから見えないようにされて、直接文句を言ってはこない。陰湿だ)。猫が好きで、地域猫的に世話をする人もいれば、庭に糞などをされて迷惑がっている人もいることは知っていた。なるべく被害のないよう、餌を据え置いたりせず、猫用のトイレを設置し、目についた糞を集めるなどはしていた。でもまあ、そういう問題じゃないのでしょうね。ウチに糞を投げ込んだところで、野良猫がそこんちの庭に来なくなることはないと思うし。

そもそも私がここに住む以前からこの界隈には猫が住んでいた。畑や田んぼが隣接し、庭付きの戸建てのあいだに雑木林が残るこの地域は、都会のど真ん中とは違い、さまざまな動物が生息している。いろんな動物の「落とし物」がされるのは仕方ないことだろうと思っていたが、八つ当たりのようにして鬱憤を晴らそうとする人もいるのだなあと残念だった。

このままでは猫そのものに危害を加えられるかもしれない。家の者にも私にも迷いはなかった。
年があけてじき、Bを連れて病院へすっとんでいった。

BはFIVキャリアだったため、先住猫とは別の部屋で元気に暮らしている。
おそらく10年ぐらいは外暮らしだったであろう彼が、完全室内暮らしを少しでもエンジョイしてくれているといいのだが。

Bの新しい名前は「よもぎ」です。よもちゃん、よもさん、などと呼ばれている。
二猫二人体制となった我が家の今年の猫の日は、去年よりちょっとだけ賑やかだ。

綸子氏

よもぎ氏

『ピース降る』15首選

/ 2018/02/11 /
こころには水際があり言葉にも踵があって、手紙は届く
一日のわたしをひとり終わらせる戦争の夢を見そうな気がする
キャベツ一枚剝がしそのまま齧る春ひとの眠りにつばさを重ね
ほんの少し空中に生をとどめおき息苦しさは生きる苦しさ
だってまたおいで待ってるからねって言ったよね言ったよね言ったじゃないか
菜の花を食めばふかぶか疼くのは春を紡いでいる舌の先
ほろほろと生き延びてきて風を抱くきみの感情のすべてが好きだ
夜に夜の手紙を書いて折りたたむ春には春の映画を観よう
このひとも空から垂れているような姿勢で冬の氷菓をねぶる
合鍵を束ねて夜を見上げても知らない星座には帰れない
星ひとつ滅びゆく音、プルタブをやさしく開けてくれる深爪
きらきらと痛むこころの水底にやわらかい尾が動き始める
透きとおる傘をわずかに傾けてわたしは色をこらえきれない
助手席の窓にもたれている顔に表情がなさすぎて笑った
オリオン座わたしがひとを産むときに燃え尽きていく夢を見させて

『ピース降る』は前歌集『硝子のボレット』から3年の後刊行された、田丸まひるにとって3冊めの歌集になる。
夜舟さんの筆による装画『脱衣』は大勢の少女がふわふわした紅の衣を脱いでいるようにも見えるし、少女たちは木蓮かなにかの花そのもので、花弁を脱ぎ捨てている、というような解釈も成り立つように思う。膝や臍、くるぶしの赤さが肌の白さをより際立たせていて、危うさと清らかさ、弱さと強さが同居した美しさを見せている。

前歌集との比較でいうと、歌の内圧みたいなものがだいぶ変わった。主題(生きる苦しさ、生きづらさとの対峙、中和、処方箋)はそのままに、一首のなかの言葉の滞空時間が、ぐっとゆるやかになっている。油彩画を見るとき、色彩は細やかに変化しているのに、筆跡は驚くほどなめらかでおおぶりなことがある。短歌の場合も、習熟していくにつれて、歌の中の言葉の要素が減り、空間をゆるやかに使うことができるようになっていく。たくさんの言葉が盛り込まれ、事柄が細かく刻まれ、一行が変化に富んだ、緊張感の高い歌、もあれば、ひとつの事柄をロング・ブレスで、少ない要素で間合いや音の響きをより駆使して詠む歌もある。それは詠まれる事柄の性格とは直接関係がない、ひとつの技術のかたちである。

「戦争の夢を見そうな気がする」はココロおだやかならないことを搦め手で告げている。今夜も眠れそうにない、安眠を得られそうにない、ということを別な言い方で言っているのだろうか。結局あなたの一日は終わらないじゃないか、夢の中でも戦うのかよ、と、おいおい大丈夫か、とツッコミを入れたくなってしまうが、「終わらせる」「気がする」二つの終止形によって自己完結しているこの歌は、少しの冷静さを保っているし、そこにどうしようもないさみしさが滲んでいる。

「言ったよね言ったよね言ったじゃないか」リフレインは、こうしてたたみかけることによって「待ってるからね」と言ってくれた相手が、もうその約束を守ってはくれないのだろう、ということを推察させる。状況の説明と、心情の高ぶりを同時に果たす、心憎く、つらいフレーズだ。

「きらきらと痛むこころの水底にやわらかい尾が動き始める」は、少しふしぎな歌だ。「こころ」は定形のものではなくて「こころの水底」があって、そこに「やわらかい尾」が動き始めるのだ、という。汎用の表現として、こころはハート型だったり、なにか固有の形を持つものとして描かれたり、語られたりしがちなものだが、この歌ではこころが池のようなもの(ファームとでもいおうか)で、そこにオタマジャクシよろしくなにかが育っている気配を伝えている。「気持ちが芽生える」「気持ちが育つ」などという言い方はあるが、それは気持ちという固有のものが変化して成長する、というニュアンスである。この歌の、こころのなかにさらに生の痕跡が生まれる、みたいな言い方はおもしろいな、と思った。

これはひとえに、私の遅筆のせいによるものだが、『硝子のボレット』と『ピース降る』、ふたつの歌集をこうして短い期間に同時に読み、考える機会に巡り会えたことは、とても貴重な経験だった。


さきにも書いたが、「書き方」のゆるやかさと、主題のハードさ、ソフトさには直接の因果関係はない。ソフトな主題をゴリゴリに攻めて書くこともできるし、ハードな主題をぼんやりと、白玉を掬うがごとく表現することもできる。
ただ、個人的に、まひる氏がこのロング・ブレスを使いこなされていることは、彼女にとってよいことなのではないか、と思った。時に誰かに宛てた処方箋のような歌を詠むときに、諸刃の剣のように、キレッキレにインを攻めていくばかりが正解でもないだろう。言葉は身体に充分跳ね返ってくるものだから。リフレインや情景描写を適切に取り入れ、一首の空間をなめらかにすべる言葉で制御する。その技を今後も存分に発揮していただきたい。


『硝子のボレット』15首選

/ 2018/01/26 /
桃色の炭酸水を頭からかぶって死んだような初恋
ジオラマの都市にも雪が降るように窓際にやる 泣いてもいいよ
父親の不在を二回くらいならわたしも武器にしたことがある
身体の見ている夢が精神の見ている夢にたどりつきそう
ひとふさの髪にくちびるあてられて濡れても蝶は飛べるのでしょう
バスタブはそういうことをする場所じゃない 夜を飛ぶ鳥を見ていた
とられたくないって横を向いたとき耳のかたちが異国の楽器
ひかりまみれあなたに移住するひとはひかりまみれになるって呪い
すばるすばるなにをされるか分からないまま気持ちよく生きていきたい
飛び降りる理由、飛び降りない理由ベッドサイドに並べる遊び
避けがたく朝は来る この夜よりもみんな、すこし、しあわせになれ
わたしの体をわたしのものにするために針と糸を用意する、ような
ひかりの深さをきみは知らないどれくらいおかされたって体じゃないか
きみの目にすみれの匂う墓地がある ひとを内側から刺したいよ
自意識が点滅しているよう なんて冷静に言うなよ怖いじゃないか

ちょっとした昔話になってしまうけれど、田丸まひるさんを知ったのはインターネットを介して、2000年代前半のことだった。彼女は当時高校生で、インターネットでの歌人たちの集まりやイベントに元気に、キュートに参加していた。当時、高校生がそうしたネット由来の歌人の集まりやイベントに参加して、活発に発言したり、作品を発信したりするのは少数だった。なので、その光景をとてもよく覚えている。そういう経緯から、「硝子のボレット」を手にした時、ほとんど親戚のおばさんのように、「よく来たねえ」という感慨を抱いた。実際にひとりでそう口にしたかもしれない。

嶋田さくらこさんの評に書いた「口からこぼれでる言葉が、そのまま空気を含み、ふんわりと球形を描いているような人」というのは、田丸まひるさんにもあてはまることだ。なにげない発言、つぶやきにも独特のリズムや間合いがあり、その語感がそのまま短歌にも生きている。口語のリズム感、固有の跳ね回る語感、言葉の斡旋に注意が払われていて、語りかけてくるような、体温が少し高めな読後感を残す歌群である。

「桃色の炭酸水を頭からかぶっ」た初恋、は言ってみれば爆死、成立しなかった恋の思い出なのだろう。にもかかわらず、カラフルで甘酸っぱくてショッキングだった、という感触がとてもよく伝わってくる。色彩と、炭酸の質感、頭からかぶるという行為の過剰さ。それらを一瞬にしてミクスチャーしてみせて、「つらいんだけどまぶしい」初恋の本質を突いた一首になっている。

歌集の中では大きくふたつ、「こいびと」をめぐる性愛の歌と、「夏のカルテ」などに見られる精神医療の現場からの、こころとからだをめぐる歌の潮流があるが、これらは根底で結びついていると思う。「身体の見ている夢」が「精神の見ている夢」にたどりつく、という感覚は、「わたしの体をわたしのものにする」ために針と糸を用意する、という感覚と隣り合う。「こころ」と「からだ」が離れてしまっていることへの違和と、コントロールがきかない絶望と、底の底にさえ、まだあるはずの希望とが入り交じっている。
「ひかりの深さをきみは知らない~」「きみの目にすみれの~」などの、感覚的な描写の上句から本意を伝える下句に移行するスタイルは、彼女の師である加藤治郎ゆずりといってもいい、抜群のキレっぷりである。

自意識が点滅しているよう なんて冷静に言うなよ怖いじゃないか

3句目が句割れ且つ1字空け、4句目が字余りの一首。解剖的にみればそういうことになるが、一読してたどたどしさを感じさせず、4句目からのスピード感が危機感、焦燥感をつのらせる。表記とリズムと内容が絡み合い、困惑を体現している。
これも、「こころ」と「からだ」の不整合性を扱った歌のうちに入るだろう。途切れていることに気づくから「点滅しているよう」だと感じるわけだ。途切れていると感じる瞬間を迎える辛さが、観察者として突き放したようでなく、受け止める一瞬のためらいごと表現されている。
歌集は後半に向かって、どんどん表現の抽象度が上がっていき、描かれる材の重さを、言葉がしっかりと支えている。

歌の感想、というか、余談めいたことを添えるとしたら、「武器」という表現が幾度か出てきて、立ち止まった。かつて「武器」を持ったもののひとりとして、娘たちに伝えたいのは、手にできるものなら、なんでも武器にしたらいいんだよ、ということ。
そうして生き抜いて、いつか「武器」はもういらないんだ、と思える日が、いつかきっと来ます。肩の力を抜いて、腕をおろして、指をひらいて、てのひらを自由にできる日を迎えてほしい。おばさんはそう願っています。

私がぼんやりしているうちに、まひるちゃんは昨年、次の歌集『ピース降る』を上梓された。
そんなわけで次回は『ピース降る』について書きます。


 
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