白濁した世界を泳ぎゆく・岸原さや『声、あるいは音のような』寸感

/ 2014/12/28 /
『声、あるいは音のような』を読んでいて思い浮かぶのは宮沢賢治が詩集『春と修羅』の題にも挙げた「心象スケッチ」という言葉だった。情景描写と感情への観察、認識の再確認といった層が連続し、折り重なってあらわれ、歌集全体が薄靄に包まれたような、白く霞む世界がひろがっている。

  白濁の思考停止のうちにいて見知らぬ映画の列に加わる
  あかるさは果てなくつづく薄闇であろうかわれは林檎をむくよ
  わたくしを生きているのは誰だろう日々わずかずつ遅れる時計

 一首目。ぼうっとしているうちに、意識せず行列の後ろについていた。その行列は映画のチケット待ちだったのだろうか。「白濁の思考停止」は硬質な表現だが、漠然とした状態から我にかえった瞬間だとよくわかる。二首目。陽光の中で林檎を剝いている。その「あかるさ」は「果てなくつづく薄闇」でもあるのかもしれない、と自問する。問いというほどのきつい疑いではないのかもしれないが、その違和感はつねにどこかに持ち続けているもののようだ。結論を待たず、林檎はどんどん剝かれていく。三首目。三句目までの問いが、歌集全体の基調となっている問いかもしれない、と立ち止まらせられた歌だった。つきつめて考えていけば、今日の私が昨日の私と同じであるかどうか、確証などない。毎日の私が今の私と同じだと、誰に言えるのだろう?時計は日々わずかずつ、遅れているのに。

  浅瀬から浅瀬へ渡る風の舟、うつむいて水、あおむいて空
  つややかに髪を洗えば石段に折れ曲がる影わたくしの影

 一首目。風にあおられて水面を漂う舟。「うつむいて水、あおむいて空」の部分が「流されている主体」の主観のようで、やけに実感のある表現ゆえに、主体の位置は浅瀬を観察する外部から、いつか舟そのものになりかわっているように見える。二首目。二句目までの髪を洗った「私」と三句目以降の折れ曲がる影をもつ「私」は連続しているようでいて、むしろそこに因果関係がないゆえに違和感を訴えかけてくる。

 Ⅱ部では同じ結社に所属した笹井宏之の死、その偲ぶ会の直前に実母の死が重なったことが詞書に綴られている。
「真っ白」「七日間」のふたつの項目では、時系列に沿って歌が並び、他のパートに比べると具体的な記述が多い。

  大量の輸血を医師は投入す破れたふくろ母を縫いつつ

 四句目に投げこまれた「破れたふくろ」という表現にどきりとさせられる。医療行為に使われた機具・製剤の喩とも、傷ついた母の喩ともとれる言葉。即物的な言い方が、切迫しつくして直裁となった心情を思わせる。

  入る門 出る門うすい闇のなか鈍色をして立っているのか
  おびただしい読点として降る花をタイヤの黒がいま踏んでゆく
  僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で

 しかし、やはりこの歌集の基調にあるのは「現実」と心象風景の入り混じった薄靄がかった世界だと思うのだ。
 一首目。この門は冥界と現世を隔てる門なのだろうか。あるいは建物の門のことを指しているのかもしれない。進む方向によって出ることにも入ることにもなる門。結句は疑問とも、自分への確認ともとれる。二首目、花の名は具体的に書かれていないが、桜の花びらをイメージして読んだ。「読点として降る」は、飛花にまとわりつく感傷を一掃するすぐれた措辞だと思った。三首目。今ここを「へんにあかるい共同墓地」と言い切ることができるのは、「あかるさ」が認識によっては「果てなく続く薄闇」でもあると感知しているから、なのではないだろうか。

 絶望の側へも、幻想の側へも、内向の側へも、行ったきりではないのだろう。薄靄をすかしたり、晴らしたりしながら、感知したことごとを大袈裟に加工することなく、伝わる温度になるよう、掌の中でとらえなおしながら差し出す、そういう過程を背後に感じる歌群だった。
 以下、好きだった歌を挙げます。

  あたたかなスープを口にはこぶとき森の深みに苔はしずまる
  雪を待つ。駅でだれかを待つように。胸にくちばしうずめて鳥は
  水甕に見えないなにか溶けていて日ごとに飲めとやさしい声が
  ひっそりとなにかが終わり夜があける名づけられない世界を生きる


二冊の「羽根と根」2

/ 2014/12/18 /
「羽根と根」第二号の「企画 あなたの好きな歌集」では一編一編がそれぞれの視点から初見(…ですよね?)の歌集について論をたてていて、おもしろく読んだ。一編ごとに出題者(というか、歌集を指定した側)の省察が入っている構成である。何人かの出題者が書いているように、この紙幅では「初見の歌集からおおよそ歌人論的な文章を導く」のは短いんじゃないかと思う。いろいろ言いたいこともあろうが発見を一点にしぼり、それを整理するぐらいでもよかったのでは、とは老婆心からの意見です。

「『蝶』における〈私〉の変化」には妻の死に直面することで〈私〉を更新した、という指摘がある。ところで論中にひかれている「渡辺松男語録」からの孫引きは、現在の「短歌と虚構」の議論にとってのひとつの解答たりえていると思った。「間違いなくワレ=ワレであったためしがない」というところがキモである。

「『フラジャイル』な飲食」では歌集を取り上げ、飲食物に関する記述からの読み解きを行っていただいた。上梓から10年あまり経った本をこのように読んでもらえるのは正直うれしいものであります。
著者本人がどうこういうのは場外乱闘みたいなものですから御法度かとは思いますが、ひとつだけ気になったことがあるので書いておきます。
この論においては「一首のなかに修辞による担保のない名詞は交換可能となる可能性が高い」「そういう(名詞の交換が可能な)歌が多い」とざっくり語られてしまっているようですが、交換不可能性についてのその指摘はずいぶん雑なのではないでしょうか。その読みでいくと雪舟さんの「ホットケーキ」の歌もホットケーキでなくてもいい、ということになります。持てる固形のもので、涙を拭けるものならパンケーキでもピタパンでもトルティーヤでもいいわけです。なぜか論のなかでそのことには触れられていませんが。(ただし、私はそのような読み方をしていませんので、ホットケーキについて動く、動かないといった観点を打ち出すつもりがそもそもありません)
そしてかつて加藤治郎さんは、「ゴーダチーズを指でえぐった」の濁音と促音の張りとリズム、硬いものを無理矢理えぐる衝動、などについて言及してくださいました(出典が今探せないので記憶による記述になります)。
このように、ここでいわれる「交換不可能性」はその性質そのものが読みの角度によってがらっと尺度が変わるものであり、印象論や読み込む意思によって左右される曖昧な性質です。
上本さんの「評論評」によると歌会でも「必然性」がよく問われがち、とのことですが、「この歌のこれは動く」といたずらに述べあうのは、どうかな、それはもう脱出したらいかがですか。
あきらかな誤用、イメージが違いすぎる、作者がその語彙に関して勘違いをしているのではないか、といった疑いがない限り、そうした揚げ足取りで時間を浪費するのはやめることをおすすめします。そういう話はうんざりするほど聞いてきました、まだやってるのかと少々げっそりしています。

「春日井建『行け帰ることなく』評」、なぜ剣や槍でなく鞭なのか、は「血と薔薇」などをちょいと調べてみると納得がいかれるのではないでしょうか。「罪意識」の所在についてもしかりです。
「『天唇』論」では俵万智さんのお名前が出てきますが、結果的に俵さんが強く打ち出すこととなった「文語口語混在文体」の先駆者としての特徴に筆者が持った感想などもう少し読みたかったなと。
「『紅い花』の相聞」では「まるで個人であることや人間であることよりも「男性」である/女性であることが優先されているかのような(中略)世界観」と綴られていますが、それが当時の社会認識として普通・もしくは主流だった、という事実をいっぺん認めて読んでみると作品に近づけるんじゃないでしょうか。ジェンダー論や父権社会との葛藤といった主題を持った、70年代の先行作品の後に出て来ているという点を調べていくのもアリでしょう。
「頻出語で読み解く『人類のヴァイオリン』」は大辻隆弘さんの論から引いた「交換可能性」(前出の「交換不可能性」とはまったく別な話ですね、さまざまなものを歌の中で等価値として扱う神の手的な性質を指しているわけで)を援用して…とのことですが、季節感のなかで突出している「桜」について、もうちょっと掘り下げてほしかった気がしました。しかし一首ごとの読みが丁寧でよかったです。
「『さよならバグ・チルドレン』評」は前半が『君に届け』、後半が『俺はまだ本気出してないだけ』というのに一票投じたくなりました。しかし、この歌集はとても手堅い修辞で書かれつつ清新さを感じさせているわけで、そのへんをどのように思われているのか、なども知りたかったなと思いました。
「『帰潮』における〈感情〉について」では「ありふれし小公園の改装のごとく槌の音たてて人ゐき」の読解が「よくみかける公園が改装のように壊されること」となっていますが、これは「ごとく」までが全部比喩で「槌の音たてて」にかかっているのでは?壊されているのは碑なのでは。もし「小公園の」で切れているとしても、壊されているのは碑と思われます。記念碑には竣工記念碑のようなものから歌碑、戦勝記念碑のようなものまでさまざまありますから、「忘るべき過去の記念」が「かつては晴れがましかったが今では取り除くべきとなったもの」という意味合いにも取ることが可能なんじゃないでしょうか。前後の歌にもう少し記念碑のなりが現れているのかもしれませんが…。「佐藤の歌から滲む〈感情〉は自分を掘り下げ、限定した結果だ」とする部分の、論拠としての歌の解釈がもうちょい欲しかったです。

ながなが書いてまいりました。頻出語を調べるのは比較文学的にいろはなのだろうと思いますが、そっから何を導き出すかがたいへんなのですよね。おのおのの挑戦しかと読ませていただきました。この情熱を今後も燃やし続けていかれることを祈っています。

*「羽根と根」はこちらで通信販売を受け付け中とのコト
http://hanetone.blog.fc2.com/blog-entry-8.html

二冊の「羽根と根」1

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短歌の同人誌「羽根と根」の創刊号と第二号を読んだ。まずはマルをつけた歌をどんどん列挙してみる。創刊号より。

いつまでも四月が怖いぼくたちにおとなのふりかけふりかけたげて/服部恵典
たくさんで逃げた風船うれしくて遠くの空できゅんきゅんと泣く

雨宿りみたいにあなたは抱きにくる雨が何かは聞けないけれど/上本彩加
許すとか許さないとかそうじゃないそうじゃないけど花をみている
上句はありそうな展開だが「雨が何か」に踏み込んでいて、立ち止まった。

ほんとうのことはなんにも言わないでぼくたちは深夜のなか卯なう/阿波野巧也
プチケーキ食べつつおもう文明が滅んでそこに立つラブホテル
「なか卯なう」はほんとうのことではないのか。

切る側と切られる側になる前の風の音だけ運ぶ電話機/佐伯紺
だけど春 意味はないって知りながら集める乾燥剤がさびしい
「通話を」切る側と切られる側なのね、と腑に落ちるまで二、三秒かかった。

紫陽花を頭のように撫でているゆっくりと逢いたさを殺して/坂井ユリ
ベランダに真夏の腕を置き去りにする ほしいのは執着だった

春は譜面のなかへ返せよ編曲を重ぬるごとくわれらは会はん/七戸雅人
会ひしこともなき人々には会ひたからず 精霊流しの下をゆく魚

朗読をかさねやがては天国の話し言葉に至るのだろう/佐々木朔
終わらせてしまわぬように知っている海の名前をひたすら挙げる



第二号では「企画 あなたの好きな歌集」と題して同人同士が歌集を指定しあい、それについて評を書くという試みがなされている(ゲスト執筆者が二名あり)。そちらについての感想は後に書くことにして、マルをつけた歌をあげる。なお、二号ではひとりあたりの歌数にかなりの差がある。多いひともいれば少ないひともいる。

出でよ結論 売り場に並ぶ砂時計のこらずひっくり返すあいだに/佐伯紺

うやむやになる/する/される 生まれれば吹いてゆくしかないから風は/坂井ユリ

矢に花をくくつて放つ弔ひも殺しもいつぺんに済ませむがため/七戸雅人

冬と春まじわりあって少しずつ暮らしのなかで捨ててゆく紙/阿波野巧也
虚無(ルビ:コミュ)力がほしい けっこう降ったあと光ってた、濡れている草ぐさ
「捨ててゆく紙」になんか実感が。「けっこう降ったあと」量の提示がおもしろく。ルビは???

スモックで拭いて明るい心臓のように差し出されるひめりんご/服部恵典
男の子のクレヨンは赤が減ってゆく火と太陽と花を愛して
どちらも語順が特によいと思われ。キモの提示の仕方など。

母親が父親もして母親もしているきっと花を枯らして/上本彩加

非常時のことしか話さないきみだ僕は非常時には逃げるのに/佐々木朔



長くなったので次へ続きます。


垂直性と水平性の編み目の向こう側・田中ましろ「かたすみさがし」寸感

/ 2014/12/03 /
 プロフィールから読み始めるのは反則のような気もするが、田中ましろさんはコピーライター・CMプランナーを生業としつつ、「うたらば」「短歌男子」といった多種多様な場を設ける活動を行いつつ作歌している方なのだという。
 短歌に使用されている語彙や用字の傾向など見ていると、なるほどと膝を打ちたくなる。ざっくばらんな口語調で作られた歌の多くが、難解な語彙や短歌特有のレトリックよりも、辞書をひかなくても読めるような、とっつきのよい言葉づかいで書かれている。一読して区切りがわからない、読み下しが難しい、と感じた歌はほとんどなかった。

 待つことは待たせることか海までの坂にだれかの蜜柑は朽ちて
 春の日に手を振っている向かい合うことは誰かに背を向けること
 骨の鳴る音を聞かせて僕たちはどうしてもどうしても異なる

 青春歌特有の反証する意識に満ちた歌をひいた。一首目、「待つ」ことの焦燥、孤独は「待たせる」ことでもあるのではないか、という思い、だろうか。「海までの坂」が高揚を感じさせるが、結句の蜜柑が時間の有限性を暗示しているようでもある。二首目も「向かい合うこと」の陰に存在する「オモテではないほう」を扱った歌だ。よろこび、情熱100%といった若さの少し先の「大人の青春歌」だろう。三首目では恋愛感情のなかにある「同じでありたい」欲望の満たされなさが「どうしても」のリフレインで強調されている。岡崎裕美子の『はい、あたし生まれ変わったら君になりたいくらいに君が好きです。 』という歌とネガとポジの関係にあるような歌だなと個人的に思った。

 ひとすじの雨になりたいまっすぐにあなたに落ちていくためだけの
 一回のオモテの妻の攻撃がもう三時間続いています

 一首目、語順の倒置によってもじもじ感(?)があぶりだされる歌。二首目は夫婦喧嘩を野球中継になぞらえた歌。試合を終えるにはかなりの時間を要しそうだ。しかも「オモテ」ということは、まだ一度も反撃をしていない。これはつらい。つらすぎるが、オモシロうてやがて悲しい歌になっている。
 調べはとてもなめらかでありつつ、句割れ・句跨がりも非常に多いが、それは前衛的な屈曲・屈折、意味と調べの脱臼を狙ったものというより、自然に繰り出されたリズム感の成果と感じた。平易な言葉を連ねたようでいて、言い方のバリエーションは多彩である。言葉の扱いに習熟していないと、なかなかそうはいかない。

 そんなわけでスルスルと読んでいけるのだが、いくつか疑問に感じた歌もあった。

 ストライク投げても受け止めないくせにミットかまえて「恋」なんて言う
 いちばんの自分の敵は自分だしあなたは敵というか、素敵だ
 世界地図に打たれた赤いピンを抜く 指先で消す未来のかたち
 食塩は湿気を帯びる 飛び出せば自由が待っているはずの朝

 一首目、三句目までで恋のメタファとしては充分で、“「恋」なんて言う”は言い過ぎだと思う。特にその言葉遊びは。二首目の言葉遊びも、どうなのか。「素敵」のなかに「敵」が含まれているという発見があったのは、わかるけれども。
 三・四首目は上下のレトリックの重量が釣り合わなかったんじゃなかろうかと感じた歌。三首目の「未来のかたち」というのがどうもうまく見えてこなかった。ピンを抜いた跡が複数あって、その軌跡を言っているのだろうか。四首目の上句、湿気を帯びた食塩は、下句の「飛び出せば自由が待っているはず」と呼応しているのかと思うが、自由の所在を塩の潮解性に託しているのだとしたら、下句はかなり冗長になってしまったのではないだろうか。

 とりどりの線でこの世とつながってしずかに隆起している身体
 まんまるい言葉ばかりだ なにひとつ死の感触を知らないわたし
 生きるとは何を残すかではないと父は言う 何も残さないと言う

 父の癌闘病を見守る息子の歌が収められたⅡからひいた。他の章とは異なる比較的ストレートな心情をのせた歌いぶりが散見された。
 特に三首目の歌が心に残った。生きている側、生き残る側のセンチメントを拒絶するかのような父の言葉に、息子は驚いたのではないだろうか。その驚きが、加工を排した筆致でぐっと迫ってくる。

 短歌の表現において、短歌特有のレトリックを駆使することは「古い」のだろうか。排他的なのだろうか。句割れ句跨がり、序詞、枕詞、係り結び、本歌取りといった技巧を取り入れて歌をつくることは、読み慣れない人に対して「不義理」なことなのだろうか。「かたすみさがし」をスルスルと読み進めながら、そんな長年の命題がぼんやりと浮かんだ。短歌と縁遠い人でも拒否感を持たずに読めるような工夫、それを仮に「水平性」と呼ぶとすれば、短歌にしかできない、それでしか味わえないような表現の特異性は「垂直性」といっていいのかもしれない。
 抽象的な話になってしまった。そもそも水平性や垂直性といったところで、誰もが両方を持ち合わせているのだとも思う。成分の強弱がゆるやかだったり、極端だったりというだけで。

 田中ましろさんにとっては、どうなのだろうか。平易な言葉を柔軟に、多様に駆使しながらも、独特なものを生み出したいという思いもあるのではないか。水平性のみではない、垂直性の強い歌を今後書かれていくこともあるのではないか。

 そんなことを思いつつ、以下、好きだった歌を挙げます。

 石ころに引かれて進むこどもたちと思ったらなんだ蹴っていたのか
 飲み切ったあとに生まれる暗闇をこぼさぬように缶をもつひと
 近づけば光らない石だとしても星 それぞれに夢を見ている
 胸のうちにまだ香りたつ日々のなか小さな部屋で栞を失くす
 決められた席に座れば安堵してみんな埴輪になってしまった


※「かたすみさがし」には読みとることでスマホや携帯電話で映像などのコンテンツを視聴できるQRコードが本文内に添えられていましたが、私の環境ではコンテンツを再生することができず、上記の文章はそれらを未視聴のままで書いています。

※追記2:記事アップ後、著者ご本人からURLを教えていただき上記コンテンツを視聴することができました。現在は一般開放中とのことです。URLはコチラ↓
田中ましろ歌集『かたすみさがし』WEB

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