和田さんのこと

/ 2019/10/27 /
和田誠さんがお亡くなりになった。
ひとつだけ「とっとき」の思い出があり、記して偲びたい。

2003年だからもう16年も前のことになる。刊行したばかりの歌集を和田さんにお送りしたところ、お手紙が添えられた句集が届いた。


手紙には“俳句をやっているので、詩歌の本を送ってくれたことがとてもうれしい”といった趣旨のことが書かれていて、句集にはこんな句が添えられていた。


「巴里の皿無事に届きて小正月」この句は句集には収録されていない。歌集のタイトル「フラジャイル」にちなんで書いてくださったものなんだと思う。
歌集のタイトルはいわゆる"handle with care"、取扱注意をさす単語である、とあとがきにちゃんと書いてある。壊れやすいとかもろいとかJPOPの曲名からとったとか、事実無根であったり、あとがきをまったく読んでいないか無視しているっぽいことを好き放題言われがちだったが、意図をちゃんとふまえて、しかもこんな粋に反応してくださったのは、ほとんど和田さんおひとりだけだった。
うれしくてうれしくて、大事にしてきた。これからも書棚で見守っていてください。

人形も腹話術師も春の風邪  和田誠
おでん屋のたねそれぞれに唄ひけり
梅雨晴間窓にヒンデンブルグ号 
秋の灯や集ひてやがて星になる

和田さんの句はその画風のようにやさしく且つコスモポリタニズムあふれるもので、句材は多岐に亘りながら、すーっと風が吹き渡るような読後感が残る。

生前の和田さんには一、二度お目にかかった。これも15年程前だろうか、TISのイベントのオープニングパーティに伺った時、偶然居合わせ、気さくにお声がけくださった。夏前ごろだったのだろうか、和田さんはアロハにジーンズの出で立ちが決まっていた。パーティが終わり、二次会に走っていかれた(本当に走ってた)。

故人のご冥福を祈りつつ、絵や句をめくり、秋の夜長を過ごしたい。

『サイレンと犀』15首選

/ 2019/10/10 /
とけかけのバニラアイスと思ったら夢中でへばってる犬だった
ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた
ねるまえに奥歯の奥で今朝食べたうどんの七味息ふきかえす
友達の遺品のメガネに付いていた指紋を癖で拭いてしまった
かなしみを遠くはなれて見つめたら意外といける光景だった
もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね
もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい
ピッチャーふりかぶってパン屑まいたマウンドに星の数ほど鳩のあしあと
蟬の一生をまとめた映像の交尾シーンで掛かる音楽
まただ のり弁掻き込んでいるときに後頭部から撃たれる夢だ
〈おはよう、世界〉のつぶやき多すぎて世界は基本スルーの姿勢
トピックス欄に訃報が現れてきらきら点るNEW!のアイコン
夕焼けにイオンモールが染まっててちょっと方舟みたいに見えた
This video has been deleted. そのようにメダカの絶えた水槽を見る
渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる


「サイレンと犀」を読みながら、ああこの人はまっとうに世の中を見ている人だなあ、とまず思った。コミカルで惨めで、ちょっとおかしくて無慈悲な今現在をしっかり見ている。時間の〈いま〉と言葉の〈いま〉はずれがちなものですが(そこがいいところでもあり、むずかしいところでもある)、この人の場合、その「ずれ」をできるだけ埋めよう、もしくはずれないようにしよう、としているのが、とてもいいところにつながっていると思います。

 もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね

 かなり散文化が進行した文体ながら、余情みたいなものを生んで、ぐっときた一首。二度出てくる「たしか」の微妙なニュアンスの違いが憎い。

「サイレンと犀」を読みながら、安福さんの、線は明確なんだけど、フォルムがどこか曖昧な挿絵が、歌の苦しさをほんの少し軽く持ち上げてくれているんだな、とわかった。

「サイレンと犀」を読みながら、うすうす笹井宏之さんのことが脳裏をよぎった。ふたりの歌は似ているというのではなく、近い世界を真逆のカメラアイで写し取っているようだな、という考えがめぐってくるのです。

 渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる

 きれいごとばかりの道へたどりつく私でいいと思ってしまう/笹井宏之

渋滞のテールランプが「汚くて綺麗」であることを肯う岡野さんの歌と、「きれいごとばかりの道」に至る「私」を肯う笹井さんの歌。表現の象徴的傾向、抽象度は別として、岡野作品にはきちんと価値判断があり、笹井作品には価値判断そのものがない、と思うのです。どちらがいい、悪い、というのではありません。


『同じ白さで雪は降りくる』15首選

/ 2019/10/04 /
レタスからレタス生まれているような心地で剥がす朝のレタスを
歯ブラシの腰のくびれのなかなかに握りやすくて春は暮れたり
バスゆれて眠る子ゆれて夢ゆれて夢のまにまにバス停がある
わたくしが育てるゆえにわたくし化していく子ども雨ふり嫌い
一個から変えるピーマン手に取れば軽い こんなに緑のくせに
栓抜けば湯よりもわれの流れ出てしまいそうなる夜のひろごり
全身にくまなく舟をめぐらせて永遠(とわ)に拡張されたき月夜
ふるふると掬い取られて欠けてゆくプリンは幼な心のごとし
ゆく扉くる扉ありて人生の長い廊下にドングリの落つ
優しさが善玉菌を造るという説あり雪は窓に光れり
脱ぐたびに静電気生むセーターをほかの力に換えられないか
白という哀しみ深く灰色の沼に落ちては沼になる雪
卓上に鍵を並べる 夕ぐれの鍵はそれぞれ疲れていたり
霜月の雨ふり止まず伝いくる水の綴りを窓に見ており
玄関に小さな靴は散らばって大きな靴を困らせている


手堅い表現力で身辺を冷静に見つめ、小さな発見を掬い取る。そうした多くの歌が連なっていくなかで、しかしその奥になにか「反骨心」と呼びたくなるようなものが時折顔を覗かせている。
子供が「わたくし化」していく、という言いぶりや、ピーマンに対してほとんどいちゃもんともいえる悪態をついてみせたり、そういうところを特に楽しんで読んだ。
「沼に落ちては沼になる雪」や「水の綴り」といった天象を詠んだ表現のなかにも、地味ながら立ち止まらせられるものが多かった。


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