『オーロラのお針子』15首選

/ 2017/12/25 /

ここは海ここは空だと塗りつぶす青という字は青くないけど
ギロチンにかければいいわその代わりおさげを切ったら許さないから
糸電話片手に渋谷ぶらついてこちら思春期はやく死にたい
あちらから見えないうちに朝が来てパイナップルの筏で戻る
オーロラのお針子たちとあんみつを食べる 春はさっくり更ける
曖昧な定規で君を測るとき「嫌いじゃない」が定点となる
てのひらが青くてふっと立ちすくむいつからここは四階なのか
あたらしいことはうれしい畦道を自転車でゆく日々のたしかさ
てのひらの葡萄の種がこの夜を蒼く照らしているルミネ前
それでは。で終わる手紙を眺めつつ月の荒野にガソリンを撒く
わたしたち安全ピンを愛します。月のスーパーマーケットです。
野薔薇って呼ばれてふたりふりかえる白熱灯の地下の廊下で
ねえ息が真っ白なのよ真夜中のバケツリレーの中身は仔猫
そうやって春が来るのかありとあらゆる金色を味方につけて
あなたさえ良ければ冬の図書館でわたしはひとり読点になる

藤本玲未さんの『オーロラのお針子』はご本人があとがきで書いているように、物語がこめられた歌たちが並んでいる。物語の途中の魅力的なところを、さっくり切り取ってお皿に盛ったかのような歌たちだ。
「ギロチンにかければ〜」のような少女型の思考をうかがわせる筆致は高柳蕗子、東直子、飯田有子、北川草子、雪舟えまなどの「かばん」のフェミニズムと物語性の文脈が絡まった一連の作家群に連なるものだと思う。
その上で藤本さんに特徴的なのは、その物語がとても身近なところにあり、「中の人」が行動的である、ということだろう。
月や星、近未来を思わせるオブジェクトなどが登場することもあるけれど、それらは身近な背景、事象と接続していって、うんと遠い世界の、絵空事のような「物語」が展開しているわけではない。「中の人」はなんらかのアクションを起こしがちで、「中の人」は傍観者というより、実際喜んだり傷ついたり立ち尽くしたりする、主人公が歌の中になまで存在している歌、という感じが強く漂う。
さらに「わたしたち安全ピンを愛します。月のスーパーマーケットです。」のように、他言語から直訳した詩のような歌が散見する。センテンスごとの内容に矛盾がなくとも、一行に仕立てられたとき、因果のない連続した詩句は文脈のねじれを感じさせ、それが単に物語というだけでなく、不思議な空間を立ち上がらせている。

その中でとりわけ目に留まったのは、
曖昧な定規で君を測るとき「嫌いじゃない」が定点となる
の一首。恋愛かもしれないが、そうではないかもしれない。好きか嫌いか、判断のスタート地点が「嫌いじゃない」ことは確かだ、という気持ちの保留され方というのは、とても現代的だなあと思った。

語尾の処理について、語りかけ口調(…の、…なの、など)で終わる歌がわりあい多いため、幼い印象がいくらか強く感じられる。
物語は筋書きや登場人物、登場するモノにのみ宿るにあらず、語り口こそが物語を左右する。語尾の処理も含めて、その語り口がよりいっそう研がれていくことを期待したい。

余談です。牧野千穂さんの表紙イラストが作品世界にぴったりで、とても美しい一冊に仕上がっている。牧野千穂さんは蜂飼耳さんとの共著絵本『うきわねこ』などの絵本著作の他に、川上弘美『竜宮』や佐藤多佳子『黄色い目の魚』宮下奈都『羊と鋼の森』など、数多くの挿画を手懸けている気鋭のイラストレーターです。ふわっとしたタッチのパステル画はミヒャエル・ゾーヴァの世界にも通じるような、かわゆさにとどまらないピリッとした魅力のある絵を描くひとりです。私も大好きな画家さんなので、この表紙はたいへんにうらやましいものであります。

インターバル

/ 2017/03/26 /
前回のエントリからあっという間に二ヶ月弱が経ってしまった。早い。早すぎる。
新鋭短歌シリーズの感想を書き始めてから三年余り、やっと第一期の鑑賞を終えた。シリーズはもう第四期の募集が始まっている。あれれ。

そもそもこの感想は、ツイッター上で歌集から何首か歌をひき、短い感想を書くところから始まった。ちょいちょい見かけるそのスタイルが自分には何やら書きづらく、ブログに場を移して続けることにした。

さらにそもそも言うと、この感想はリハビリのつもりで始めたものだった。7年程前(記憶がかなりあやふやなので具体的な時期は特定できない)、短歌を書くのも読むのも難しくなった時期があり、ほとんどの歌集や総合誌が読めなくなってしまった。巷によく言う「文字が目に入るけど内容が頭に入ってこない」状態だった。
当然作る方だけできるなんてこともない。むしろそっちはもっと深刻だった。書いても書いても自分の書いたものを翌日読むとげんなりする、の繰り返し。パソコンやスマホで書くと、嫌な文字列を破り捨てることができない。パッとデリートしたのではカタルシスがなく、悶々したもやだけが残り続けた。

とにかく考えをまとめるリハビリとして、感想を文章にする練習を始めた。書くスタイルも段々と変化し、文章量も(結果的に)徐々に増えていった。はじめの方の感想と、後の方の感想のスタイルに一貫性がないのはそのためで、他の意図は何もない。
はじめは抽出した歌の解釈と全体評、みたいなものだったのが歌群を抽出して分類したり…みたいになっていった。これは恢復しているといえるのかそうでもないのか、現時点では自分にはよくわからない。ただ以前より、短歌について考えることにだいぶ「手足が動く」ようになってきたのかな、とは漠然と思う。

読めないならやめればいいのである、とは思う。難しいとか苦しいとか、そういうふうにしてやる必要のあることなのか。おぼろげながら覚えているのは、感想を書こう、と決めた時、短歌について、もう少しだけ考え続けたい、考え続けよう、と思ったこと。ひっかかったりつっかかったりするのは、自分の中にまだ何か「こだわり」みたいなものがあるのだろう。その「こだわり」がある限りは、もう少し考え続けてみよう。

この先の書くスタイルとしては、10〜15首を選んでそれについて触れる、というスタイルに移行しようと考えています。少しスピードを上げて今年じゅうに少なくとも第二期の歌集について考えたり書いたり、を終えたいところ。
すでに3月が終わりそうな気配ですが、ぼちぼち進めていきたいと思います。

力について・五島諭「緑の祠」寸感

/ 2017/01/25 /
10年か、もう少し以前になるかもしれない。この歌を読んで、とても驚いたことを覚えている。

 ラジカセの音量をMAXにしたことがない 秋風の最中に

 ラジカセでも、ステレオでも、テレビでもいい。ふだん、その音量を最大にすることはない。適度な、丁度良いところで使用しているからだ。しかしもっと大きな音量の設定は用意されている。操作すれば、もっとずっと大きな音がでる。
 これは単に経験の有無を語っているのではなく「そこにあるけれど使わない力」への思惟なんじゃないか、と思った。
 歌集には収録されていないが、五島さんはかつて「早稲田短歌」にこんな歌を残している。

 洋上を漂うブイに吹きつける風力8を僕はおもった

 自らが行使する、自らに及ぼされる力だけでなく、あまねく「力について」の思惟が五島さんの中心にあるのではないか。そんなことを思っていたら、このような歌群が収録されていた。

  擬態する蛾の内奥に閉じこめろ力にまつわる思考のすべて
  救われるということは何ベンチプレスする人々が窓から見える
  フォーク投げたくてボールを挟み込む指の力のようだよ鬱は
  最高の被写体という観念にこの写真機は壊れてしまう
  蟷螂の食べている蛾を蟷螂の視界へと飛び込ませた力
  挽き肉のかたまりに手を押し当てて手形をとっている夜明け前
  左手に持った爪切り いまのところ何かに届かないという感覚

一首目。まさに「力にまつわる思考」を、「擬態する蛾の内奥」に閉じこめろ、という。ただの蛾でなく、さらに擬態する蛾、と特定しているのが、抑圧的だ。蛾は己を守るために擬態するのだ、と教わった記憶が蘇る。二首目。トレーニングをする人を眺めながら「救い」についての問いが浮かぶ。反復運動も祈りも、どちらも体が為すことである。「強く」なることとは何なのか。三首目。鬱を言い当てる、絶妙な表現になっている。悲しいことが起きて落ち込む、といった「失点」でなく、むしろある目的のためにかかる負荷そのものが鬱なのだ。四首目。最高の被写体という「観念」にカメラが壊れる、という描写。至福を迎えてあとは壊れるのみ、ということなのか、身に余る緊張で壊れてしまう、ということなのか。幸福も不幸も、心にとっての負荷という意味では同じなのだ、というような話を思い出す。五首目。ひとはそれを運命と言ってしまうのだろう。食物連鎖とか、宿命とか。しかしそこに、蛾を突き動かした力があるのではないか、と詠んでいる。

余談になるが、俳句結社「鷹」の主宰・小川軽舟さんの俳句日記「掌をかざす」に「私は生まれてこのかた人を殴ったことがない。「鷹」の竹岡一郎君にそう言ったら信じがたい人生だという顔をされた」という記述があった。
小川軽舟さんは昭和36年生まれで、この日記を書いていた折(2014年)は53歳ということになる。53歳の日本人男性として、それが平均的なことなのかどうなのかはわからない(ちなみに竹岡一郎さんはふたつ年下の昭和38年生まれである)。時をさかのぼると、少なくとも今日現在より、かつて暴力としての力は、喧嘩だとか躾といったかたちで、すぐ手に届く場所にありふれていた。いつのまにか暴力の日常性は失われ、身近なものは水面下に没し、特殊性が強調され、距離があるもの、あるべきものとして扱われるようになっていった。

力即暴力、というわけではないが、「力」というものが総体として「他に影響を及ぼすもの」であることは確かで、五島さんの視点はかなり頻繁にそこに注がれているようだ。
それは何故なのか。それに関連するのかどうか、もうひとつ、視点の存在位置について、思うことがあった。

  写真を飾るという習慣の不思議さを考えながら星空を見る
  無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか 蝶の羽が汚い
  世界を創る努力を一時怠って風に乗るビニールを見ている
  日付けなど人為と思う草の葉をぽつぽつ渡っていく糸蜻蛉
  宇宙はとても暗いところで保たれる/帽子の上から頭に触れる
  白い蛾がたくさん窓にきてとまる 誕生会に呼ばれた兵士
  夕方は出口がとてもよく見えて自分のからだが嫌いな兵士
  ヒロインを言葉のなかに探そうとラジオを修理している兵士

最近読んだ本に髙橋和巳の「消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ」がある。精神科医の著者が、被虐待児を出自とした人がどのように世界を認識しているのか、症例を通して詳解している本で、著者はその中で「異邦人」という言葉を使っている。
人は誰もが社会的存在であり、そのために必要な要件として「感情と規範の共有」がある。虐待を経てそれらを得られなかった人は、他の人々と同じ世界に居ながら、別な世界を生きている=異邦人である、という表現である。

彼の語り口は、どこか社会から離れ、人々から離れ、浮き世を遠くに見ているようだった。彼はいつも社会という熱気の圏外にいて、外側から人々を観察し、自分自身さえもそこから眺めている。その不思議な人との距離感、奇妙な存在感が私を刺激した。
「消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ」髙橋和巳

この記述を引用した意図は、歌人の出自について詮索したりするものではない。引用部の「異邦人」に対しての印象が、さきにあげた歌群の、視点の置き方を考えるにあたって、参考になったからだ。
ふだん短歌を読み、解するときに前提とされている、「常識」とすら呼べないような共通理解、規範の外側から、これらの歌は発せられているように見えたからだ。

一首目。自宅の居間か、自室でもいい。家族の写った写真が飾ってある。自室に自分だけの顔写真を飾るような人は、いるだろうか。いずれ、そこに存在する人の写真が飾られていることが当然、という考えの外側にいる。写真が人物以外のものだったとして、やはりそれを飾って眺めるという行為は、「いつも目にしていたいから」という以外に、合理的な説明をするのは難しい。二首目と三首目はどちらも呆然としているように見える。無を想像できない「ぼく」も、「世界を創る努力を怠る」のも、そのようなことをしなければならないのだろうか?という疑問符を突きつける。四首目、「日付け」はたしかに人間の定めたひとつの基準にすぎない。草の葉に留まっては離れ、移動していく糸蜻蛉は「移り変わり」の喩でもある。このように認識を自然の中に着地させようとする歌も集中に散見する。その姿は自然賛歌というより、自らの状況とは無関係に刻々と変化する自然に、むしろ安堵しているように見える。
「兵士」が登場する歌も集中に多く登場するが、この「兵士」は五島さん自身の投影でもあるのかもしれない、と思いながら読んだ。「兵士」は戦闘にあたる、力を持つ存在でありながら、命令という「力」によって動かされる存在でもある。日常になじめていない「兵士」の描写は、ある種の緊張の比喩のようだな、とも感じた。

これらの歌は現代短歌が何気なく規範としているものの外側で書かれているように見える。その規範とは、倫理と言い換えてもいい。同じ時代を生きる者が守っている、共有している倫理。あたりまえとされる規範。その外側に立てば、おのずと奇を衒うのでもなく、達観するのでもなく、「ふつう」として執り行われていることが不可思議に見える。
規範そのものを批評し、疑問符をつきつける、ということも、もちろんできる。しかし五島さんの歌には、そうした批評性のようなものが希薄である。「写真を飾るという習慣の不思議さ」は根源的な問いのかたちで差し出されていて、具体例に接して違和感を覚えた、といったプロセスがない。また、習慣そのものを否定しているところもない。ただただ眺めている。それは別の天体から、地球という星を見て、そこで暮らしている人々を観察しているようですらある。

前段に戻って、「力」についての観察、考察も、規範の外側からのものだとしたら、合点がいく。蟷螂が蛾を食べることは珍しいことではない。しかし、食べられる蛾の側からすれば、なんらかの経過によって、食われてしまう位置に行ってしまったことになる。蟷螂と蛾のそのような「ありふれた偶然」を、もっと大外から見ると、彼らの行動というものの他に、何らかの力が働いたようにも感じられる。「緑の祠」の視座からは、あらゆる「力」が「見えて」しまうのかもしれない。

最後に、他に好きだった歌を挙げる。
今生で五島さんの歌集が読めて、嬉しかった。歌集を編むという行為もまた、あたりまえの規範というものから遠い、困難なことであるのだから。

  信じることの中にわずかに含まれる信じないこと 蛍光ペンを摑む
  零時とも二十四時とも言えてただ黒い大きい金庫のような
  ここだけの話にしてもいいけれど話の中のひと、仄青い
  薄明の坂の頂 胸郭に光を充たすように生きなよ
  「罪と罰」の「罪」ならわかる 蝶が舌を伸ばす決意のことならわかる
  結局は動かなくなる心、でも遭難のとき見るという青
  なぜ胸が痛むのだろう蜂蜜をシリアルにまぶした食べ物は


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