二冊の「羽根と根」2

/ 2014/12/18 /
「羽根と根」第二号の「企画 あなたの好きな歌集」では一編一編がそれぞれの視点から初見(…ですよね?)の歌集について論をたてていて、おもしろく読んだ。一編ごとに出題者(というか、歌集を指定した側)の省察が入っている構成である。何人かの出題者が書いているように、この紙幅では「初見の歌集からおおよそ歌人論的な文章を導く」のは短いんじゃないかと思う。いろいろ言いたいこともあろうが発見を一点にしぼり、それを整理するぐらいでもよかったのでは、とは老婆心からの意見です。

「『蝶』における〈私〉の変化」には妻の死に直面することで〈私〉を更新した、という指摘がある。ところで論中にひかれている「渡辺松男語録」からの孫引きは、現在の「短歌と虚構」の議論にとってのひとつの解答たりえていると思った。「間違いなくワレ=ワレであったためしがない」というところがキモである。

「『フラジャイル』な飲食」では歌集を取り上げ、飲食物に関する記述からの読み解きを行っていただいた。上梓から10年あまり経った本をこのように読んでもらえるのは正直うれしいものであります。
著者本人がどうこういうのは場外乱闘みたいなものですから御法度かとは思いますが、ひとつだけ気になったことがあるので書いておきます。
この論においては「一首のなかに修辞による担保のない名詞は交換可能となる可能性が高い」「そういう(名詞の交換が可能な)歌が多い」とざっくり語られてしまっているようですが、交換不可能性についてのその指摘はずいぶん雑なのではないでしょうか。その読みでいくと雪舟さんの「ホットケーキ」の歌もホットケーキでなくてもいい、ということになります。持てる固形のもので、涙を拭けるものならパンケーキでもピタパンでもトルティーヤでもいいわけです。なぜか論のなかでそのことには触れられていませんが。(ただし、私はそのような読み方をしていませんので、ホットケーキについて動く、動かないといった観点を打ち出すつもりがそもそもありません)
そしてかつて加藤治郎さんは、「ゴーダチーズを指でえぐった」の濁音と促音の張りとリズム、硬いものを無理矢理えぐる衝動、などについて言及してくださいました(出典が今探せないので記憶による記述になります)。
このように、ここでいわれる「交換不可能性」はその性質そのものが読みの角度によってがらっと尺度が変わるものであり、印象論や読み込む意思によって左右される曖昧な性質です。
上本さんの「評論評」によると歌会でも「必然性」がよく問われがち、とのことですが、「この歌のこれは動く」といたずらに述べあうのは、どうかな、それはもう脱出したらいかがですか。
あきらかな誤用、イメージが違いすぎる、作者がその語彙に関して勘違いをしているのではないか、といった疑いがない限り、そうした揚げ足取りで時間を浪費するのはやめることをおすすめします。そういう話はうんざりするほど聞いてきました、まだやってるのかと少々げっそりしています。

「春日井建『行け帰ることなく』評」、なぜ剣や槍でなく鞭なのか、は「血と薔薇」などをちょいと調べてみると納得がいかれるのではないでしょうか。「罪意識」の所在についてもしかりです。
「『天唇』論」では俵万智さんのお名前が出てきますが、結果的に俵さんが強く打ち出すこととなった「文語口語混在文体」の先駆者としての特徴に筆者が持った感想などもう少し読みたかったなと。
「『紅い花』の相聞」では「まるで個人であることや人間であることよりも「男性」である/女性であることが優先されているかのような(中略)世界観」と綴られていますが、それが当時の社会認識として普通・もしくは主流だった、という事実をいっぺん認めて読んでみると作品に近づけるんじゃないでしょうか。ジェンダー論や父権社会との葛藤といった主題を持った、70年代の先行作品の後に出て来ているという点を調べていくのもアリでしょう。
「頻出語で読み解く『人類のヴァイオリン』」は大辻隆弘さんの論から引いた「交換可能性」(前出の「交換不可能性」とはまったく別な話ですね、さまざまなものを歌の中で等価値として扱う神の手的な性質を指しているわけで)を援用して…とのことですが、季節感のなかで突出している「桜」について、もうちょっと掘り下げてほしかった気がしました。しかし一首ごとの読みが丁寧でよかったです。
「『さよならバグ・チルドレン』評」は前半が『君に届け』、後半が『俺はまだ本気出してないだけ』というのに一票投じたくなりました。しかし、この歌集はとても手堅い修辞で書かれつつ清新さを感じさせているわけで、そのへんをどのように思われているのか、なども知りたかったなと思いました。
「『帰潮』における〈感情〉について」では「ありふれし小公園の改装のごとく槌の音たてて人ゐき」の読解が「よくみかける公園が改装のように壊されること」となっていますが、これは「ごとく」までが全部比喩で「槌の音たてて」にかかっているのでは?壊されているのは碑なのでは。もし「小公園の」で切れているとしても、壊されているのは碑と思われます。記念碑には竣工記念碑のようなものから歌碑、戦勝記念碑のようなものまでさまざまありますから、「忘るべき過去の記念」が「かつては晴れがましかったが今では取り除くべきとなったもの」という意味合いにも取ることが可能なんじゃないでしょうか。前後の歌にもう少し記念碑のなりが現れているのかもしれませんが…。「佐藤の歌から滲む〈感情〉は自分を掘り下げ、限定した結果だ」とする部分の、論拠としての歌の解釈がもうちょい欲しかったです。

ながなが書いてまいりました。頻出語を調べるのは比較文学的にいろはなのだろうと思いますが、そっから何を導き出すかがたいへんなのですよね。おのおのの挑戦しかと読ませていただきました。この情熱を今後も燃やし続けていかれることを祈っています。

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