生も死もある風景・斉藤真伸「クラウン伍長」寸感

/ 2014/02/02 /
「クラウン伍長」奥付で確かめたところによると、斉藤真伸さんは1971年生まれ。73年生まれの自分にとって同年代であるからか、歌集に収録された歌の語彙のはしばしに、きゅんとくるような、妙な親近感、見覚えのある景色を感じる。

書名の「クラウン伍長」は機動戦士ガンダムの端役も端役、一場面に登場して戦場の露と消える戦士の名前から取られている、とのこと。
思わず漫画「機動戦士ガンダムorigin」を読み返す。漫画のほうでは2巻の終盤に、大気圏近くで繰り広げられるジオン軍と連邦軍の争いのなかで、クラウン伍長の乗ったザクが大気圏に溶けていくさまがたしかに描かれている。

犬死にへの頌歌、とは加藤治郎さんによる解説の一節であるけれど、この歌集の中では死の瞬間そのものというより、生に混じって存在する無数の死に向けたまなざしが、とつとつとつむがれているようだ。
歌集冒頭の章からして「補陀落渡海」だもの。

村上春樹の小説の一節に、死が生と二項対立しているのだとしたら、「生きている」の対義語は「死」ではなく「死に続けている」である、というのがあった(出典探せなくてすいません)。死者は消滅するのではなく、「死」の状態を継続している、と。
「クラウン伍長」にはそのような視点が多分に含まれているように思う。

 歯の穴にしかと収まるアマルガムわが亡骸の手がかりとして

歯科診療記録が本人確認の有力な手がかりになることはメディアのおかげで今日知識として広まっていると思うが、実用としての歴史は案外浅い。日航機墜落事故の折に初めて大規模活用されたのが広まる契機となったことは記憶に新しい。
生きている私の歯を治療するための型どりは、同時にいつかの死の準備ともいえる。

 凍て空の流星群にまぎれつつクラウン伍長の火葬は続く

大気圏ぎりぎりでのガンダムとの攻防の果て、戦線離脱の契機を失い、シャアの「捨て駒」として自機もろとも燃え尽きたクラウン伍長の死。
地上から見上げる流星群のなか、あそこで今もクラウン伍長は燃えている。無名に近い死の風景を、今日の空に認める感覚がある。

 心理学実験棟にぴーぴーとヒヨコの幽霊さまよう母校

そんなクラウン伍長の歌の次に置かれたのがこれ。
…そ、そうだよね、ヒヨコだって霊になるよね、と初句を見ると「心理学」。いったいこの建物では何をやっているのか、といい意味で不安になる。

「死」と何度もタイプしているけれど、こんな感じ(こんな感じ?)で本歌集においての「死」の扱いは深刻というより風景の一部みたいになっている。
まるでこの世は生きている者だけのモノではない、とでもいうように。死者は無口な存在として、ちゃんとそこにいる。生きてる側が饒舌すぎるだけなのだ。

 水差しのなかはからっぽ真夜中の漫画喫茶は沈黙を売る
 農協ののぼりを濡らすはだれ雪ひとは生きるか雑用のため
 爆弾を仕掛ける場所がないじゃない薄さを誇る液晶テレビ

シニカルな視点を見ていると松木秀、生沼義朗といった名前があたまを過ぎるが、松木氏とはシニシズムの質が違うと思うし(彼ほど現代を嗤ってはいない、むしろ怒っている)、生沼氏ほど現代に「淫して」はいないと思う。一首目はとくに、個人的な郷愁を誘われた歌だった。漫画喫茶が純粋に「漫画を読ませる喫茶店」だった短い時代のことを思う。
以下、好きだった歌を挙げます。

 あああれは寂しいおとこ皿の上の秋刀魚をあんなにきれいに食べて
 藤棚を濡らせる雨にふと思うオランダ人の着衣水泳
 これもまた春の水なりスポンジに記念切手の糊を湿らす
 わたくしは鉛筆をいま削ってます他生今生の争いのはて


 
Copyright © 2010 無頼派への道(仮), All rights reserved
Design by DZignine. Powered by Blogger