「愛書」って/電子書籍云々

/ 2011/03/03 /
ほぼ日の目眩く愛書家の世界を読み返してみた。荒俣宏氏の何万冊かの蔵書の中からとっておきを開陳いただきつつ、「愛書家とは何か」をやわらかくレクチャーしてもらうという企画。
「珍しい本を集める」というよーな地点を超えた、すさまじい話が展開されていておもしろかった。「もうこんなものは作られない」と何度か言われていたが、たしかに、豪華な本、贅沢な本をこしらえることそのものを楽しむ、なんて究極の享楽みたいなものは今の時代には成立しないのかもしれない。それを多くの人に届けられるかどうか、どれだけの人に知らしめるか、とかいう視点がかならず求められてしまいそうな気がする。それはたった一冊の本を、たった一人の要望の為に、とはあんまり相容れないのではないか。

だって、荒俣さんのような方がかかれば、そういう趣向の本ができそうなのに!と思うし、そう思うひとはたくさんいるんじゃないかと思うけれど、きっとそういうこと(愛書家向け秘蔵本の商業出版?)は起きないと思うのだ。
今ってわりと好きな物をすぐに大勢にひろめる、という方向に流れが向きがちなんじゃないかと思うけど、愛書家の世界そのものが多勢に無勢さと真逆なベクトルでできてる気がする。
荒俣さんが紹介したようなおそるべき本を電書にしてもたぶんほとんど意味がない。というか、愛書家のみなさんはそんなこと望んじゃいないんじゃないかと思う。「それ」がたくさんの人の手に渡ることより、「それ」が誰かの山をも穿つような思い入れにより「それ」が成立するためだけに存在する、という「事実」がコミであるからこそ価値があるように見える。
   *   *
電子書籍の話題になると、すぐに「本の変わりに電書を買うのか」みたいな話になってしまうけれど、本はただ単に「文字を見て情報を受け取る」だけのものじゃないのになあ、といつも思う。
「書籍」と付いているから敵対心を煽るのか。電子書籍のことは、本じゃなくてアプリの一種だとおもえばどうか。どうかと言われても困るかもしれないが。

前の行に続けて電子書籍についての考察を、100行ほどまで書いてみて、保存して、読み返して、結局消してしまった。
生業で現行の販売物としての電子書籍を扱っているものとしても(ふだんはおもに紙のDTPをやってるわけですが)いろんなことを思うのだけれど、そのなんだかんだな思いを、文字として特に残さなければならない、という気持ちになれなかったのだった。
とにかく「電子書籍」というものは、今、船頭多くしてやっとこ船が出たような状況で、これから十年か二十年か、ひとびとのあいだに行き渡っていくだろうと私は思う。受け入れる人も受け入れがたい人も、歓迎する人も忌避する人もいるだろうけど、出てった船は当分ぷかぷかしていくだろうと思う。もう、10年前とは違うのだ。

そんななかでひとつだけ、デジタル・アーカイブというものは、今ひとが思っているよりずっと大事なものなんですよ、ということだけは、ずっと思ってるし、今も思ってるし、この先もっとそうだろうと思う、とここに書いておこう。
東郷雄二さんの書かれた文章(橄欖追放第68回)の示唆するもの(定本の依拠)を、テキストにたずさわる者はより真剣に考えなければならない。
 
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