web俳誌「俳句新空間」内の1コーナー・およそ日刊「俳句新空間」で不定期連載しておりました俳句鑑賞「人外句境」がこのたび終了しました。
以下に全回のリンクを張っておきます。
ご興味ありましたらご覧いただけるとうれしいです。
2014年12月からおよそ2年半の間、だいたい隔月で書いておりまして、途中から書くスタイルが少々変わってたり(最初は純粋に一句評をしていたのが一句評+αな感じに)しますが、基本的に「人でないもの」の登場していると思われる俳句の鑑賞文です。
1 たましひが人を着てゐる寒さかな/山田露結
2 ピストルをむけたら猫が近づいた/長嶋有
3 ロボットが電池を背負ふ夕月夜/西原天気
4 舞踏して投げてドリアン道の果/安井浩司
5 礼装が那由他の蝶をささめかす/筑紫磐井
6 木乃伊の手胸にとどかず雁渡る/大石雄鬼
7 靴べらの握りが冬の犬の顔/上田信治
8 蛍消えとなりの人とさはりあふ/佐藤文香
9 貝殻追放月は人照らしけり/田中裕明
10 雉は野へ猿は山へと別れゆき/辻征夫
11 絵本すずしピーターラビツトずるしずるし/辻桃子
12 雲呑は桜の空から来るのであらう/摂津幸彦
13 人魚恋し夜の雷聞きをれば/川上弘美
14 百物語つきて鏡に顔あまた/柿本多映
15 少女みな軍艦にされ姫始/関悦史
16 雪女ヘテロの国を凍らせて/松本てふこ
17 防湿のパンドラの匣百日紅/中山奈々
18 骨壺を抱いてゐさうな日傘かな/北大路翼
19 夏近し火星探査機自撮りせよ/飯田有子
20 白皙の給仕に桜憑きにけり/竹岡一郎
21 人形も腹話術師も春の風邪/和田誠
22 国の名は大白鳥と答えけり/対馬康子
23 草餅を邪神に供へ杵洗ふ/車谷長吉
24 回送電車軽々と行く秋の夜半/林望
25 春の簞笥の口あけている/岡田幸生
26 大凧の魂入るは絲切れてのち/髙橋睦郎
27 たましひも入りたさうな巣箱かな/藺草慶子
28 夕闇に冷蔵庫待つ帰宅かな/小川軽舟
29 チルチルもミチルも帰れクリスマス/竹久夢二
30 初夢に踊り狂へり火星人/高山れおな
31 とけし顔胴に沈みぬ雪達磨/岸本尚毅
32 風船になつてゐる間も目をつむり/鴇田智哉
33 箱庭にもがきし跡のありにけり/青山茂根
34 てのひらに蝌蚪狂はせてみたりけり/櫂未知子
35 行く春や踊り疲れし蜘蛛男/芥川竜之介
36 脛毛なきロボット登るかたつむり/佐怒賀正美
37 今晩は夜這いに来たよと蛸が優しい/御中虫
38 立ち上がるときの悲しき巨人かな/曾根毅
39 旅鶴や身におぼえなき姉がいて/寺山修司
40 月の人のひとりとならむ車椅子/角川源義
まとめ(あとがき)
ひとりの真実、ひとりの夜明け・嶋田さくらこ「やさしいぴあの」寸感
仲直りしてあげるから買ってきて雪のにおいのアイスクリーム
口からこぼれでる言葉が、そのまま空気を含み、ふんわりと球形を描いているような人が、時々いる。食べたものがおいしいとか、しんどいとか、眠いとか、なにげないつぶやきさえ、その人が文字として並べると、ほわほわして見える。ツイッターのタイムラインに存在するさくらこさんに私はそんな印象を抱いている。
キャラメルコーン買ってきて、と佐藤真由美さんは歌ったが、さくらこさんが要求したのはアイスクリームだった。雪のにおいのする、特別なアイスクリーム。かぐや姫が三人の皇子にふっかけた難問を思い出す。あるいは、彼が買ってきてくれるなら、それが「雪のにおいを持つ」特別なアイスクリームなんだ、ということなのかもしれない。アイスクリームは適度に空気を含んだ方がおいしい、というトリビアを思い出す。
恋の歌がどっと押し寄せてくる歌集でありながら、その大半は「現場」ではなく、回想だったり、会えない日のことが歌われているように見える。泣いたり笑ったり拗ねたり、ひとつひとつの恋の場面を振り返り、言葉に置換している、という印象だ。
電気屋で手を繋いでいる「ご新居はどちらですか?」と聞かれる遊び
この夏は観測史上君のこと最も好きになる予報です
台風に負けない動きのワイパーをまぶたに設置したから泣くよ
渾身の空振りだよね(エマージェンシー!エマージェンシー!)うるさいよ涙腺
ちょこちっぷくっきーって言うときの顔好きだったとか早く忘れろ
勢いがあって、ぎゅんぎゅんくる歌を選んでみた。一首目、夫婦を装って家電を見ている場面。装っているわけではなく、そこでそうしていれば、フーフっぽく見えることを知っている。「遊び」という結びには、強がりと矜持が入り混じっている。二首目、天気図にひとつも低気圧がないような、スカッとした晴天が脳裏に浮かぶ。「楽しくなる」とか「好きになってもらえる」のではなく、「好きになる」ことに主眼がある。三首目と四首目はどちらも泣くことの歌だけれど、さめざめとした自愛の涙ではなく、極限までいった、決壊!といった趣(?)のある表現で、いいぞいいぞ、と変な茶々を入れたくなってしまう。五首目は恋愛の些細な真実をやわらかく言っていて、ぐっとくる。些細だからこそ、焼き付いてしまってなかなか拭えないものが残る。
魔法瓶に一晩泊まってゆくといい 銀色のお湯になれる幸福
ばらばらの君を拾って集まった骨に名前がなくてさびしい
サイダーの千の気泡を飲み干して さあ、もう人でないものにおなり
こんどからこうしようって提案を部長みたいにしないでほしい
こちらにひいたのは屈託のある歌。魔法瓶のお湯、は淹れた温度より熱くなることはない。幸福と結びながら、はじめから翳りがひそんでいる歌だ。二首目、断片的なかけらをあつめて、それを「思い出」と呼ぶこともできない。「骨に名前がない」はくるしく、切実な修辞だ。三首目、「人でないもの」になれ、と語りかける対象は誰なのか。ここでは「私」であると受け取った。希求する心の激しさが、逸脱してしまう。四首目は連続した歌ではないが、現実の側からだけモノを言ってくる「部長みたいな」ひとに、人でないものがぶつかっていくのは難しそうだ。
おう、わしやわしや、と電話かけてくるこの町のおじさんはみんな
町中のいたるところで燃え尽きるホース格納箱の情熱
国道で寝ころんでみる午前四時の北斗はすこしつよくかがやく
L'ensemble des dissonances(不協和音のアンサンブル)と題されたⅡ部からひいた。この章はさくらこさんのクロニクルなのだろう。大人達の「思い」を浴び、飲み込んだ「私」がいて、そんな「私」も歳月という乗り物によってどんどん運ばれていく。丹念に振り返りながら、やがて前を向く「私」の姿がある。三首目は歌集全体を通して特に好きな歌で、新聞配達の途上、薄明に消え残った北斗七星を、国道に寝転んで見上げている。「つよくかがやく」のは、たったひとりの情景を、寝転んだ全身で受けとめている、さくらこさんそのものだよな、と思う。
以下、好きな歌をひきます。韻文には、短歌には、真実が含まれていてほしい、というのは私個人の願いですが、ここでいう真実とは、ひとめ見てわかるような客観的事実とか、即共有可能な共通事項、とかではないのです。ひとりにとってのまぎれもない真実。それを読むひとに対して接続可能なものとして差し出すために、修辞をこらすのだと思うのです。さまざまな角度から、修辞をトライしている、このような歌群にひかれました。
行くことのない島の名はうつくしい 忘れられない人の名前も
寂しん坊ようこそ夜へ階段を降りきるときの恍惚のまま
夢で会うなら監督はわたしだし別れのシーンはカットしておく
雨のない街に生まれてくる人の涙を掬うしごとがしたい
踊っても、踊っても雨 どうすれば愛せなくなるのか考える
【文フリ直前だよ】岡大短歌2号をよむ【5/4はTRC】
岡山大学短歌会の機関誌「岡大短歌2」から抜き書きです。
文明がふくらみ風に人格を与えて回転扉が回る 藤原愛美「ビブロフィリア」
感情の束だとおもう髪の毛を六センチほど切ってください 安良田梨湖「枯葉降る」
チャイティのミルクをソイに変更し彼氏ともめた友人を待つ 上本彩加「ある春のこと」
いきものを埋葬した手は焼鮭に焦げ目をつける手でもあること 三村美菜子「ストラト・キャスター」
待てばいい 辞書とノートが傍にあり自由に開けていい窓がある 山田成海「たった一つの家」
* * *
妥協という釦をとめれば階段の踊り場の埃たちが静まる
だらしなく開いた夜にねころんで思いだす元恋人の犬 安良田梨湖「蝶ネクタイ」
食べられるために死ぬもの食べられることはないけど死んでいくもの
ハンガーの私の形が美しい 朝は関係性を問わない 上本彩加「いうなれば群青」
通りすぎる人に名前をつけてゆく ゆみこは私の親友になれ
しあわせのかたちふしあわせのかたちはねを広げる渡り鳥たち 山田成海「安心と不信」
岡山大学短歌会はとても若い短歌会で、今年(2015年)も文学フリマに出展するようです、ってことは会が存続したのかな。よかったよかった。
全体的に言葉のつながりがなめらかな歌が多くて、寸詰まりで読みづらい、といったことはないけれど、言葉の整理や吟味がもっとあるといいかな、と思うところもありました。
そしてみんな真面目な印象だ…吟行記もあってそれが特に。不真面目な中年が意見するのをためらうほどに。
末永く、楽しく継続されたらいいなと思っております。
文明がふくらみ風に人格を与えて回転扉が回る 藤原愛美「ビブロフィリア」
感情の束だとおもう髪の毛を六センチほど切ってください 安良田梨湖「枯葉降る」
チャイティのミルクをソイに変更し彼氏ともめた友人を待つ 上本彩加「ある春のこと」
いきものを埋葬した手は焼鮭に焦げ目をつける手でもあること 三村美菜子「ストラト・キャスター」
待てばいい 辞書とノートが傍にあり自由に開けていい窓がある 山田成海「たった一つの家」
* * *
妥協という釦をとめれば階段の踊り場の埃たちが静まる
だらしなく開いた夜にねころんで思いだす元恋人の犬 安良田梨湖「蝶ネクタイ」
食べられるために死ぬもの食べられることはないけど死んでいくもの
ハンガーの私の形が美しい 朝は関係性を問わない 上本彩加「いうなれば群青」
通りすぎる人に名前をつけてゆく ゆみこは私の親友になれ
しあわせのかたちふしあわせのかたちはねを広げる渡り鳥たち 山田成海「安心と不信」
岡山大学短歌会はとても若い短歌会で、今年(2015年)も文学フリマに出展するようです、ってことは会が存続したのかな。よかったよかった。
全体的に言葉のつながりがなめらかな歌が多くて、寸詰まりで読みづらい、といったことはないけれど、言葉の整理や吟味がもっとあるといいかな、と思うところもありました。
そしてみんな真面目な印象だ…吟行記もあってそれが特に。不真面目な中年が意見するのをためらうほどに。
末永く、楽しく継続されたらいいなと思っております。
白濁した世界を泳ぎゆく・岸原さや『声、あるいは音のような』寸感
『声、あるいは音のような』を読んでいて思い浮かぶのは宮沢賢治が詩集『春と修羅』の題にも挙げた「心象スケッチ」という言葉だった。情景描写と感情への観察、認識の再確認といった層が連続し、折り重なってあらわれ、歌集全体が薄靄に包まれたような、白く霞む世界がひろがっている。
白濁の思考停止のうちにいて見知らぬ映画の列に加わる
あかるさは果てなくつづく薄闇であろうかわれは林檎をむくよ
わたくしを生きているのは誰だろう日々わずかずつ遅れる時計
一首目。ぼうっとしているうちに、意識せず行列の後ろについていた。その行列は映画のチケット待ちだったのだろうか。「白濁の思考停止」は硬質な表現だが、漠然とした状態から我にかえった瞬間だとよくわかる。二首目。陽光の中で林檎を剝いている。その「あかるさ」は「果てなくつづく薄闇」でもあるのかもしれない、と自問する。問いというほどのきつい疑いではないのかもしれないが、その違和感はつねにどこかに持ち続けているもののようだ。結論を待たず、林檎はどんどん剝かれていく。三首目。三句目までの問いが、歌集全体の基調となっている問いかもしれない、と立ち止まらせられた歌だった。つきつめて考えていけば、今日の私が昨日の私と同じであるかどうか、確証などない。毎日の私が今の私と同じだと、誰に言えるのだろう?時計は日々わずかずつ、遅れているのに。
浅瀬から浅瀬へ渡る風の舟、うつむいて水、あおむいて空
つややかに髪を洗えば石段に折れ曲がる影わたくしの影
一首目。風にあおられて水面を漂う舟。「うつむいて水、あおむいて空」の部分が「流されている主体」の主観のようで、やけに実感のある表現ゆえに、主体の位置は浅瀬を観察する外部から、いつか舟そのものになりかわっているように見える。二首目。二句目までの髪を洗った「私」と三句目以降の折れ曲がる影をもつ「私」は連続しているようでいて、むしろそこに因果関係がないゆえに違和感を訴えかけてくる。
Ⅱ部では同じ結社に所属した笹井宏之の死、その偲ぶ会の直前に実母の死が重なったことが詞書に綴られている。
「真っ白」「七日間」のふたつの項目では、時系列に沿って歌が並び、他のパートに比べると具体的な記述が多い。
大量の輸血を医師は投入す破れたふくろ母を縫いつつ
四句目に投げこまれた「破れたふくろ」という表現にどきりとさせられる。医療行為に使われた機具・製剤の喩とも、傷ついた母の喩ともとれる言葉。即物的な言い方が、切迫しつくして直裁となった心情を思わせる。
入る門 出る門うすい闇のなか鈍色をして立っているのか
おびただしい読点として降る花をタイヤの黒がいま踏んでゆく
僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で
しかし、やはりこの歌集の基調にあるのは「現実」と心象風景の入り混じった薄靄がかった世界だと思うのだ。
一首目。この門は冥界と現世を隔てる門なのだろうか。あるいは建物の門のことを指しているのかもしれない。進む方向によって出ることにも入ることにもなる門。結句は疑問とも、自分への確認ともとれる。二首目、花の名は具体的に書かれていないが、桜の花びらをイメージして読んだ。「読点として降る」は、飛花にまとわりつく感傷を一掃するすぐれた措辞だと思った。三首目。今ここを「へんにあかるい共同墓地」と言い切ることができるのは、「あかるさ」が認識によっては「果てなく続く薄闇」でもあると感知しているから、なのではないだろうか。
絶望の側へも、幻想の側へも、内向の側へも、行ったきりではないのだろう。薄靄をすかしたり、晴らしたりしながら、感知したことごとを大袈裟に加工することなく、伝わる温度になるよう、掌の中でとらえなおしながら差し出す、そういう過程を背後に感じる歌群だった。
以下、好きだった歌を挙げます。
あたたかなスープを口にはこぶとき森の深みに苔はしずまる
雪を待つ。駅でだれかを待つように。胸にくちばしうずめて鳥は
水甕に見えないなにか溶けていて日ごとに飲めとやさしい声が
ひっそりとなにかが終わり夜があける名づけられない世界を生きる
二冊の「羽根と根」2
「羽根と根」第二号の「企画 あなたの好きな歌集」では一編一編がそれぞれの視点から初見(…ですよね?)の歌集について論をたてていて、おもしろく読んだ。一編ごとに出題者(というか、歌集を指定した側)の省察が入っている構成である。何人かの出題者が書いているように、この紙幅では「初見の歌集からおおよそ歌人論的な文章を導く」のは短いんじゃないかと思う。いろいろ言いたいこともあろうが発見を一点にしぼり、それを整理するぐらいでもよかったのでは、とは老婆心からの意見です。
「『蝶』における〈私〉の変化」には妻の死に直面することで〈私〉を更新した、という指摘がある。ところで論中にひかれている「渡辺松男語録」からの孫引きは、現在の「短歌と虚構」の議論にとってのひとつの解答たりえていると思った。「間違いなくワレ=ワレであったためしがない」というところがキモである。
「『フラジャイル』な飲食」では歌集を取り上げ、飲食物に関する記述からの読み解きを行っていただいた。上梓から10年あまり経った本をこのように読んでもらえるのは正直うれしいものであります。
著者本人がどうこういうのは場外乱闘みたいなものですから御法度かとは思いますが、ひとつだけ気になったことがあるので書いておきます。
この論においては「一首のなかに修辞による担保のない名詞は交換可能となる可能性が高い」「そういう(名詞の交換が可能な)歌が多い」とざっくり語られてしまっているようですが、交換不可能性についてのその指摘はずいぶん雑なのではないでしょうか。その読みでいくと雪舟さんの「ホットケーキ」の歌もホットケーキでなくてもいい、ということになります。持てる固形のもので、涙を拭けるものならパンケーキでもピタパンでもトルティーヤでもいいわけです。なぜか論のなかでそのことには触れられていませんが。(ただし、私はそのような読み方をしていませんので、ホットケーキについて動く、動かないといった観点を打ち出すつもりがそもそもありません)
そしてかつて加藤治郎さんは、「ゴーダチーズを指でえぐった」の濁音と促音の張りとリズム、硬いものを無理矢理えぐる衝動、などについて言及してくださいました(出典が今探せないので記憶による記述になります)。
このように、ここでいわれる「交換不可能性」はその性質そのものが読みの角度によってがらっと尺度が変わるものであり、印象論や読み込む意思によって左右される曖昧な性質です。
上本さんの「評論評」によると歌会でも「必然性」がよく問われがち、とのことですが、「この歌のこれは動く」といたずらに述べあうのは、どうかな、それはもう脱出したらいかがですか。
あきらかな誤用、イメージが違いすぎる、作者がその語彙に関して勘違いをしているのではないか、といった疑いがない限り、そうした揚げ足取りで時間を浪費するのはやめることをおすすめします。そういう話はうんざりするほど聞いてきました、まだやってるのかと少々げっそりしています。
「春日井建『行け帰ることなく』評」、なぜ剣や槍でなく鞭なのか、は「血と薔薇」などをちょいと調べてみると納得がいかれるのではないでしょうか。「罪意識」の所在についてもしかりです。
「『天唇』論」では俵万智さんのお名前が出てきますが、結果的に俵さんが強く打ち出すこととなった「文語口語混在文体」の先駆者としての特徴に筆者が持った感想などもう少し読みたかったなと。
「『紅い花』の相聞」では「まるで個人であることや人間であることよりも「男性」である/女性であることが優先されているかのような(中略)世界観」と綴られていますが、それが当時の社会認識として普通・もしくは主流だった、という事実をいっぺん認めて読んでみると作品に近づけるんじゃないでしょうか。ジェンダー論や父権社会との葛藤といった主題を持った、70年代の先行作品の後に出て来ているという点を調べていくのもアリでしょう。
「頻出語で読み解く『人類のヴァイオリン』」は大辻隆弘さんの論から引いた「交換可能性」(前出の「交換不可能性」とはまったく別な話ですね、さまざまなものを歌の中で等価値として扱う神の手的な性質を指しているわけで)を援用して…とのことですが、季節感のなかで突出している「桜」について、もうちょっと掘り下げてほしかった気がしました。しかし一首ごとの読みが丁寧でよかったです。
「『さよならバグ・チルドレン』評」は前半が『君に届け』、後半が『俺はまだ本気出してないだけ』というのに一票投じたくなりました。しかし、この歌集はとても手堅い修辞で書かれつつ清新さを感じさせているわけで、そのへんをどのように思われているのか、なども知りたかったなと思いました。
「『帰潮』における〈感情〉について」では「ありふれし小公園の改装のごとく槌の音たてて人ゐき」の読解が「よくみかける公園が改装のように壊されること」となっていますが、これは「ごとく」までが全部比喩で「槌の音たてて」にかかっているのでは?壊されているのは碑なのでは。もし「小公園の」で切れているとしても、壊されているのは碑と思われます。記念碑には竣工記念碑のようなものから歌碑、戦勝記念碑のようなものまでさまざまありますから、「忘るべき過去の記念」が「かつては晴れがましかったが今では取り除くべきとなったもの」という意味合いにも取ることが可能なんじゃないでしょうか。前後の歌にもう少し記念碑のなりが現れているのかもしれませんが…。「佐藤の歌から滲む〈感情〉は自分を掘り下げ、限定した結果だ」とする部分の、論拠としての歌の解釈がもうちょい欲しかったです。
ながなが書いてまいりました。頻出語を調べるのは比較文学的にいろはなのだろうと思いますが、そっから何を導き出すかがたいへんなのですよね。おのおのの挑戦しかと読ませていただきました。この情熱を今後も燃やし続けていかれることを祈っています。
*「羽根と根」はこちらで通信販売を受け付け中とのコト
http://hanetone.blog.fc2.com/blog-entry-8.html
「『蝶』における〈私〉の変化」には妻の死に直面することで〈私〉を更新した、という指摘がある。ところで論中にひかれている「渡辺松男語録」からの孫引きは、現在の「短歌と虚構」の議論にとってのひとつの解答たりえていると思った。「間違いなくワレ=ワレであったためしがない」というところがキモである。
「『フラジャイル』な飲食」では歌集を取り上げ、飲食物に関する記述からの読み解きを行っていただいた。上梓から10年あまり経った本をこのように読んでもらえるのは正直うれしいものであります。
著者本人がどうこういうのは場外乱闘みたいなものですから御法度かとは思いますが、ひとつだけ気になったことがあるので書いておきます。
この論においては「一首のなかに修辞による担保のない名詞は交換可能となる可能性が高い」「そういう(名詞の交換が可能な)歌が多い」とざっくり語られてしまっているようですが、交換不可能性についてのその指摘はずいぶん雑なのではないでしょうか。その読みでいくと雪舟さんの「ホットケーキ」の歌もホットケーキでなくてもいい、ということになります。持てる固形のもので、涙を拭けるものならパンケーキでもピタパンでもトルティーヤでもいいわけです。なぜか論のなかでそのことには触れられていませんが。(ただし、私はそのような読み方をしていませんので、ホットケーキについて動く、動かないといった観点を打ち出すつもりがそもそもありません)
そしてかつて加藤治郎さんは、「ゴーダチーズを指でえぐった」の濁音と促音の張りとリズム、硬いものを無理矢理えぐる衝動、などについて言及してくださいました(出典が今探せないので記憶による記述になります)。
このように、ここでいわれる「交換不可能性」はその性質そのものが読みの角度によってがらっと尺度が変わるものであり、印象論や読み込む意思によって左右される曖昧な性質です。
上本さんの「評論評」によると歌会でも「必然性」がよく問われがち、とのことですが、「この歌のこれは動く」といたずらに述べあうのは、どうかな、それはもう脱出したらいかがですか。
あきらかな誤用、イメージが違いすぎる、作者がその語彙に関して勘違いをしているのではないか、といった疑いがない限り、そうした揚げ足取りで時間を浪費するのはやめることをおすすめします。そういう話はうんざりするほど聞いてきました、まだやってるのかと少々げっそりしています。
「春日井建『行け帰ることなく』評」、なぜ剣や槍でなく鞭なのか、は「血と薔薇」などをちょいと調べてみると納得がいかれるのではないでしょうか。「罪意識」の所在についてもしかりです。
「『天唇』論」では俵万智さんのお名前が出てきますが、結果的に俵さんが強く打ち出すこととなった「文語口語混在文体」の先駆者としての特徴に筆者が持った感想などもう少し読みたかったなと。
「『紅い花』の相聞」では「まるで個人であることや人間であることよりも「男性」である/女性であることが優先されているかのような(中略)世界観」と綴られていますが、それが当時の社会認識として普通・もしくは主流だった、という事実をいっぺん認めて読んでみると作品に近づけるんじゃないでしょうか。ジェンダー論や父権社会との葛藤といった主題を持った、70年代の先行作品の後に出て来ているという点を調べていくのもアリでしょう。
「頻出語で読み解く『人類のヴァイオリン』」は大辻隆弘さんの論から引いた「交換可能性」(前出の「交換不可能性」とはまったく別な話ですね、さまざまなものを歌の中で等価値として扱う神の手的な性質を指しているわけで)を援用して…とのことですが、季節感のなかで突出している「桜」について、もうちょっと掘り下げてほしかった気がしました。しかし一首ごとの読みが丁寧でよかったです。
「『さよならバグ・チルドレン』評」は前半が『君に届け』、後半が『俺はまだ本気出してないだけ』というのに一票投じたくなりました。しかし、この歌集はとても手堅い修辞で書かれつつ清新さを感じさせているわけで、そのへんをどのように思われているのか、なども知りたかったなと思いました。
「『帰潮』における〈感情〉について」では「ありふれし小公園の改装のごとく槌の音たてて人ゐき」の読解が「よくみかける公園が改装のように壊されること」となっていますが、これは「ごとく」までが全部比喩で「槌の音たてて」にかかっているのでは?壊されているのは碑なのでは。もし「小公園の」で切れているとしても、壊されているのは碑と思われます。記念碑には竣工記念碑のようなものから歌碑、戦勝記念碑のようなものまでさまざまありますから、「忘るべき過去の記念」が「かつては晴れがましかったが今では取り除くべきとなったもの」という意味合いにも取ることが可能なんじゃないでしょうか。前後の歌にもう少し記念碑のなりが現れているのかもしれませんが…。「佐藤の歌から滲む〈感情〉は自分を掘り下げ、限定した結果だ」とする部分の、論拠としての歌の解釈がもうちょい欲しかったです。
ながなが書いてまいりました。頻出語を調べるのは比較文学的にいろはなのだろうと思いますが、そっから何を導き出すかがたいへんなのですよね。おのおのの挑戦しかと読ませていただきました。この情熱を今後も燃やし続けていかれることを祈っています。
*「羽根と根」はこちらで通信販売を受け付け中とのコト
http://hanetone.blog.fc2.com/blog-entry-8.html

